城址(黒塚古墳)の前に建つ城址碑
黒塚古墳を利用して築かれた城
別名
柳本陣屋(江戸時代)
所在地
天理市柳本町1115他、柳本公園(黒塚古墳展示館の西側)
黒塚古墳展示館:柳本町1118-2、電話0743-67-3210
形状
平城(陣屋:江戸時代)
現状・遺構等
現状:黒塚古墳、柳本小学校他
遺構等:水堀、陣屋御殿(橿原神宮に移築)
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/08/10
歴史等
室町時代後期に、楊本(やなぎもと)氏が、黒塚古墳を大幅に改変して砦を築いたと言われる。
柳本は古くから興福寺の荘園となり楊本氏が荘官を勤めていた。
その後、十市(といち)氏の支配する領地となり、元亀2年(1571)柳本城に付け城を用意した。
天正3年(1575)には、松永久秀の手に帰し、甥の松永金吾が入城した。
同5年(1577)10月、松永久秀は織田信長に謀反を起こしたために攻められ、金吾は自刃し落城した。そして、天正8年(1580)
に信長により城は破却された。
その後、元和2年(1616)には織田長益(有楽斎)の5男尚長が同地に陣屋を構え、明治4年(1871)
の廃藩置県まで255年間織田氏が当地を治めた。
『黒塚古墳展示館展示資料より』
現況・登城記・感想等
ここは、柳本城跡というよりも、「黒塚古墳」
と言った方がはるかに知名度が高い。
「黒塚古墳」
と言えば、1997年に実施した発掘・調査で、後円部に見付かった竪穴式石室から33面もの三角縁神獣鏡が出土したことで、
マスコミが大々的に取り上げ、邪馬台国が大和であることが証明されるのではと大騒ぎになったのが記憶に新しい。
さて、柳本城跡であるが、古墳の周囲3方を囲む水堀は、いずれもかなりの広さを誇る。北池(内堀)と菱池(外堀)
とは5mほどの比高差があり、その間はしっかりした土塁で区分けされている。
戦国期の柳本城は、前方後円墳の後円部を中心に築かれていたのであろう。前方部との間を掘割(堀切)で分断していたようである。そして、
後円部頂上は大した高さではないが、見晴らしは良い。
また、江戸期の陣屋時代には、陣屋の中心は現柳本小学校辺りで、御殿が建っていたようだが、今では陣屋の面影は全くない。
(2008/08/10登城して)
ギャラリー
黒塚古墳の図(現地説明板より)
ここは、柳本城跡というよりも、「黒塚古墳」と言った方がはるかに知名度が高い。柳本城は、黒塚古墳を大幅に改変して砦を築いたと言われる。
㊧後円部、 ㊨前方部(後円部から撮影)
1997年に実施した発掘・調査で、後円部に見付かった竪穴式石室から33面もの三角縁神獣鏡が出土したことで、
マスコミが大々的に取り上げ、邪馬台国が大和であることが証明されるのではと大騒ぎになった。今では、石室は埋め戻され、
その箇所に写真付きの説明板が設置されている。発掘されるまでは、児童公園になっていてブランコや鉄棒等が設置されていたそうだ。
後円部頂上から南東方向を①
右奥には、陣屋跡に建つ柳本小学校が見える。また、江戸期の陣屋図によると、
下の方に見える土橋はなかったようで、両側の池が繋がり内堀となっている。
後円部頂上から北西方向を②
後円部は大して高くはないが、周りは平らな大和平野なので、どの方向も見晴らしは良い。下に見える池は外堀
(菱池)で、内堀とは段差があり5m以上は低い。
㊧前方部から後円部を、 ㊨発掘された掘割(堀切)~現地説明板より~
古墳のくびれ部付近(㊧)には、当然ながら今は埋め戻されているが、後円部と前方部を分断し、後円部を防御の要とするべく堀が掘られていた。
堀の上面の幅は6m以上あり、深さは3mに達する。断面はV字状である。また、発掘調査では、後円部西側(左写真正面)で石垣を検出し、
軒丸瓦には織田家の家紋「木瓜紋」が確認されたそうだ。
内堀
写真は、古墳の南西から撮ったもので、内堀の広さは相当なものだ。正面奥の丘が後円部で、
左には前方部が一部見える。
内堀(北池)と外堀(菱池)間の土塁
内堀(右側の池)と外堀とは段差があり、5m以上低く、その間をしっかりした土塁で分けられている。
【柳本陣屋】
柳本陣屋図(黒塚古墳展示館展示より)
嘉永7年(1854)の陣屋図で、中央に御殿屋敷の敷地、左下には黒塚古墳と堀が描かれている。
陣屋跡には小学校が
江戸時代の陣屋の中心は現柳本小学校辺りであるが、今では陣屋の面影は全くない。
また、桜井在住のかつての同僚T氏によると、以前(相当昔のこと)は、ここに立派な陣屋門が建っていたそうだが、
何処へ行ってしまったのだろう?
陣屋御殿(玄関と大書院) ~黒塚古墳展示館展示写真より~
橿原神宮の文華殿として移築されている。この建物は表向御殿で玄関一棟と大書院一棟からなり、公式行事に使われた。