備前 天神山城(和気町)

本丸と二の丸間の大堀切

戦国期後半に備前国の中心として展開した浦上宗景一代45年間の壮大な山城

所在地

岡山県和気郡和気町岩戸、田土
【アクセス】
山田小学校から旧道を東へ約250mほど行ったところに天石門別神社があり、その神社脇に登山口があります。また、更にそこから山麓沿いの旧道を約200mほど南東へ行ったところに侍屋敷経由で登る道もあります。更に、山の東側にある「和気美しい森キャンプ場」の方から「太鼓の丸」経由で登る道もあるようですが分からりませんでした。
尚、私は天石門別神社の脇から登り、車は登城口の西約100mにある「和気町ふる里会館(旧和気郡山田村役場庁舎)」の前の駐車場を利用しました。 
山田小学校:和気町岩戸799、電話0869-88-0056
和気町ふる里会館:和気町岩戸725-1

所要時間

登城口から城域まで約35分、主郭まで45分。今回の総見学時間は約2時間。

形状

山城(標高338m、比高310m)

現状・遺構等

【現状】 山林(岡山県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、井戸、侍屋敷、石碑、標柱、説明板、遺構説明板

満足度

★★★★

訪城日

2011/09/23

歴史等

天神山城は、浦上宗景一代限り45年間の居城である。
主家赤松義村を弑逆し下剋上にて、備前東部と播磨国西部を領有する戦国大名となった浦上村宗は、三石城を居城としていた。
享禄4年(1531)村宗が大坂の合戦で討死すると、長男の政宗が居城を播磨の室津城に移して跡目を継いだが、その後、弟の宗景・国秀と不和になり、次男宗景が手勢と備前国東部の有力国人を引き連れて分立し、天神山に城を構えたのが天神山城の始まりである。尚、宗景は三石城も持ち城とした。また、三男国秀が富田松山城に居城を構えた。
弟の離反を怒った政宗は、翌5年(1532)に宗景討伐の軍を起こし、まず三石城を攻略し、ついで富田松山城を攻撃して国秀を降伏させた。ついで富田松山城を本陣にして宗景を攻めたが、決着がつかず、双方が自然と手を引いて終戦となった。政宗は、富田松山城三石城に城番を置いて室津城へ帰陣した。
その後、宗景は天神山城を居城にして備前国と美作国南部を領国とする戦国大名に成長し、兄政宗の滅亡後には播磨国南西部をも領有した。
しかし、宗景の家臣であった宇喜多直家が、永禄2年(1559)頃から台頭しだし、備前国中南部を攻略して戦国大名に成長し、同10年(1568)頃からは公然と宗景に敵対するようになり、宗景の領主権は後退しはじめた。そして、天正初年(1573)頃には力関係が完全に逆転していた。
天正5年(1577)、宇喜多直家は天神山城を攻め、数日間の攻防の末、宗景方に内容者を出させて落城させ、宗景を遁走させた。岡山平野を本拠地とする直家にとって、天神山城は戦略的価値もなく、攻略後に廃城にした。
尚、宗景の遁走した先については諸説あるが定かではない。
『日本城郭大系13より』

現況・登城記・感想等

睡眠時間約1時間、東京からここまでの車の走行距離は800km以上、そして三石城富田松山城についで3つ目の登城ということもありますが、峻険な天神山城への登城は、今まででも3本の指に入るほどきつい登城でした(;´▽`A``。
天神山城は吉井川中流の左岸に聳える急峻な天神山山頂に築かれた典型的な連郭式山城で、総延長約500mに及ぶ本城と約500m離れた出丸(太鼓の丸)からなる大規模な城郭です。
縄張は、天神山山頂に細長い本丸を構え、北西に二の丸・大手曲輪(桜の馬場)・三の丸等の曲輪群を、南東に飛騨の丸・南の段などの曲輪群を配置し、曲輪群の両側は急斜面となっています。各曲輪の基礎部の大半が石垣構築だったようです。
南東約500mには、堀切、尾根の鞍部を経て別峰の太鼓丸(出丸)があり、城の搦め手を防備しています。
また、天神山西側山麓には、階段状に侍屋敷群があり石垣や土塁が残っています。
天神山城への登城口は数ヶ所あるようですが、天石門別神社脇から直登するのが一般的なルートのようで、私もこのコースを登りましたが、登り始めていきなり30度はゆうにある強烈な崖道です。途中、ほんの僅かだけ緩斜面もありますが、ほとんど山頂付近まで約35分間続く岩だらけの道で、最後は足も上がらなくなり、腿がケイレンを起こすほどでした( ̄ー ̄;。
城郭遺構は、上部建築物を除きほぼ完存で、登城前の想定通り見応え充分で満足度★★★★☆ですが、達成感は★★★★★です。否、達成感はそれ以上かも(苦笑)。
(2011/09/23登城して)

ギャラリー

天神山城跡曲輪&遺構等配置図(現地登城口案内板より)
天神山城は吉井川中流の左岸に聳える急峻な天神山山頂に築かれた典型的な連郭式山城で、総延長約500mに及ぶ本城と約500m離れた出丸(太鼓の丸)からなる大規模な城郭です。 縄張は、天神山山頂に細長い本丸を構え、北西に二の丸・大手曲輪(桜の馬場)・三の丸等の曲輪群を、南東に飛騨の丸・南の段などの曲輪群を配置し、曲輪群の両側は急斜面となっています。
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天神山城鳥瞰図(現地本丸跡案内板より)
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【登城記】
天神山城全景(南西山麓から)

天神山は、木々の間からごつごつした岩肌がむき出しになり、見るからに峻険な山です。写真正面山麓に天石門別神社が鎮座し、その西側に一般ルートの登山口がありますが・・・・・( ̄ー ̄;。 
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駐車場所の和気町ふる里会館(旧和気郡山田村役場庁舎)
天石門別神社前に、登山用駐車場として和気町ふるさと会館が指定してあったので、まずは車をふるさと会館の前に・・・。ここには天神山城関連の資料などが展示されているようなので入館しようと思ったのですが閉まっていました。黒電話が置いてあり、●●●●番に電話して下さいと書かれていましたが、時間に余裕がなかったのでやめました。尚、この「和気町ふるさと会館」は国指定の登録有形文化財だそうです。道理で古くて立派な建物だと思いました(*^_^*)。
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天神山城の大看板
天神山の南西山麓には「天神山城跡」の大きな看板が、国道374号線の旧道のところに掲げられています。
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天石門別神社
城の守護神として天神山山頂に天津社が祀られていたが、天文2年(1533)に本丸築城にあたり山麓の現在地に遷宮された。この神社の西側に登城口がある。
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登城口
登山道は数箇所あるようだが、この登山口から登るのが一般的なコースらしいのだが・・・!?
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登城道
睡眠時間約1時間、ここまでの車の走行距離800km以上、そして三石城、富田松山城についで3つ目の登城ということもありますが、峻険な天神山城への登城は、今まででも3本の指に入るほどきつい登城でした(;´▽`A``。
この天石門別神社脇から直登するのが一般的なルートのようですが、登り始めていきなり30度はゆうにある強烈な崖道です。途中、ほんの僅かだけ緩斜面もありますが、ほとんど山頂付近まで約35分間続く岩だらけの道で、時々は高さ50cm以上もある岩の上に足を乗せたりしなければなりません。最後は足も上がらなくなり、腿がケイレンを起こすほどでした( ̄ー ̄;。

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見張り所
登城口から、急崖道を息絶え絶えに登ってくること12~13分で見張り所へ到着。
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見張り所からの眺望
見張所だけあって、さすがに眼下に拡がる景色は素晴らしい。
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天神地蔵
見張り所から、さらに急崖道を登ること10分強で天神地蔵へ出る。大きな岩の下に、小さなお地蔵さんが座り、そこに御賽銭が置かれていたが、こんな場所までお参りにくる人もいるのだと感心? 登城道には、ほとんど平らな場所がないだけに、こういう場所でしばしの休憩をとれるのが有難い(*^_^*)。
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「下の段」の石垣
天神地蔵の所から、さらに急崖道を約10分ほど登ってくると目の前に「下の段」の石垣が現れ城域に入ったことを実感します。ホッ(*^_^*)。
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「下の段」
下の段は隠曲輪で、西方より侵入して来た敵を上から攻撃する曲輪で、50騎1備の枡形だそうですが、こんなきつい崖を登って攻撃してくるなんて、その時の私には考えられませんでした(苦笑)。ここから本丸までは階段状に曲輪が続きます。この上の段は西櫓台で、下の段との比高差は4~5mといったところでしょうか。
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「西櫓台」
ここには佐伯平野の見張りと本丸~竜ケ鼻城の連絡場としての櫓台がありました。
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「西櫓台」から「三の丸」を
三の丸の西端部には東屋が建てられています。西櫓台との比高差も4~5mくらいでしょうか。
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「三の丸」
三の丸は比較的大型の曲輪で、数段の曲輪群が連なっています。奥の段の上は大手曲輪の西隅にあたり鍛冶場があった場所です。

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「桜の馬場(大手曲輪)」
この城の最大の曲輪で80m×20mほどあり、両側面には帯曲輪や腰曲輪などが設けられています。中央北側には大手門(櫓門)があり、西隅には鍛冶場があったのだそうです。
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桜の馬場(大手曲輪)の西側下には「百貫井戸」の水の手曲輪があり、下りて行く道があるようですが、一旦下りてから登って来る体力が残っていないので諦めました(/。ヽ)。
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大手曲輪側面(大手門横)の石垣
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「桜の馬場」から「長屋の段」を
長屋の段跡には、かなり大きめの石が用いられた石垣や虎口には石段も確認される。
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「長屋の段」
長屋の段には倉庫があり、鉄砲櫓・食糧櫓・武器櫓などがあったそうです。奥に見える段の上は二の丸です。
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「二の丸」
二の丸は30×20mほどの広さです。奥の方に本丸との間の堀切が見えてきます。
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「本丸」と「二の丸」の間の堀切
この堀切は、幅が15m近くある割に浅く、小曲輪跡だという説もあるらしいのですが・・・?
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堀切底から本丸を
堀切の両側(本丸と二の丸)には石垣が確認されます。堀切の深さは、本丸との高低差は約6m、二の丸との高低差は約3mほどでしょうか。
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「本丸」
本丸は約55m×約20mほどの長方形を基本とした曲輪で、立派な石碑が立てられています。
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本丸櫓台跡?
本丸の南東端には天津社が祀られた6m×4mほどの基壇がありますが、天守閣的な中心櫓が存在していたと思われます。ここには元々、城の守護神として天津社が祀られていましたが、天文2年(1533)に本丸築城にあたり山麓の現在地に遷宮(現天石門別神社)されたのだそうです。
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「飛騨の丸」
城主宗景の重臣明石飛騨守景親の屋敷跡で上下2段からなります。奥の土塁上は本丸です。
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「飛騨の丸」の野面積みの石垣
飛騨の丸の上のと下段の段差には野面積みの石垣が設けられています。
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「飛騨の丸」(飛騨の丸の下の段にて撮影)
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「馬屋の段」
主郭で通常使用した馬屋で、有事の際は三の丸に移したようです。
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「南櫓台」
本丸・太鼓の丸間の連絡と、城外と城内を見守る目的があります。
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「南の段」
隠曲輪で、敵が城内に侵入してきた際に、堀切の敵を上から攻撃する曲輪です。奥に見える土塁は南櫓台です。
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南の段の南東の堀切
南の段の南東下には岩盤を砕いて普請した堀切があります。それほど規模は大きくありませんが、ゴツゴツとして荒々しい感じがします。
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太鼓の丸との間の鞍部
南の段の先は急傾斜となり、約30mほど落ちていきます。太鼓丸との間の鞍部両側は堀切のような急傾斜であり、多少なりとも人の手が加えられているのではないでしょうか?
今回は疲労困憊のため太鼓の丸へ登るのは断念しました。

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【侍屋敷】
下山は侍屋敷を通りましたが、こちらが往時の大手道でしょうね。侍屋敷は段曲輪状に築かれているのですが、よく分からず「ぐるみの壇」くらいしか気が付きませんでした(/。ヽ)。
天神山城と侍屋敷の図(現地案内板より)
この配置図は、下山してから見つけたものです。これ見ていれば侍屋敷群を見て回ることが出来ただろうに・・・(/。ヽ)。
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侍屋敷への道
登ってきた道と違い緩やかな坂道ですが、傾斜面に造られて狭い上、道が谷側に傾斜しているので気を付ける必要があります。それでも随分楽です(*^_^*)。登城道が主郭まで1kmに対し、こちらは主郭から侍屋敷まで1.3kmなので、傾斜がまるで違うのです!
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「侍屋敷(ぐるみの壇)」
侍屋敷は、階段状に侍屋敷群があり石垣や土塁が残っているのですが、道が分からなくて、この「ぐるみの壇」しか行けず、土塁も石垣も見損なってしまいました(/。ヽ)。尚、写真右側下は土壘の壇になる。
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下山(もう一つの登城口)
ここが侍屋敷経由で登城する道ですが、この写真を見て一体誰が登山口だと思うでしょうか??それにしても侍屋敷群を見損なったのは惜しかったです(/。ヽ)。右の案内板が侍屋敷群の配置図が載ったものです。
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