備中 楪城(新見市)

楪城本丸を(本丸一ノ壇脇から撮影)

尼子氏に属す新見氏の城、三村氏が奪取するも、さらに吉川元春麾下の城に

読み方

ゆずりはじょう

別名

新見城、弓絵葉城、杠城

所在地

岡山県新見市上市小谷
【アクセス】
中国自動車道「新見インター」から国道180号で2.2km程北上して二俣を斜め右へ進み、国道180号をキープします。1.2km程北上して左折し(案内有)、道なりに1.5kmほど行ったところ(行き止まりの約150mほど手前)に、斜め右へ下りて行く細い道(見落としやすいです)があります。そこを、右へ下りて小さな集落へ向かうと駐車場があります。そのすぐ上が登城口で、説明板が立っています。
尚、登城口は本来の大手である天叟寺辺りからもあるようです。
天叟寺:新見市上市1400−1、電話0867-72-4829

所要時間

登城口から本丸まで11~12分、今回は三の丸まで行かなかったので、見学時間は1時間15分でしたが、全て見学するには2時間近くはみた方が良いでしょう。

形状

山城(標高490m、比240m、Pから比130m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、堀切、石垣、石碑、説明板、遺構説明板

満足度

★★★★

訪城日

2013/11/24

歴史等

楪城は、鎌倉末期(正応元年~永仁元年、1288~1293)頃に、新見氏によって築城されたといわれる。
戦国時代、国経の時代の文亀元年(1501)~天文11年(1542)頃には、出雲尼子氏に属し多治部氏や三村氏の攻撃に備えていた。
しかし、国経の弟で最後の城主新見貞経の時の永禄9年(1566)~10年(1567)頃に、毛利氏に属していた成羽鶴首城の三村元親・元範に攻められ、楪城も落城し、三村元範が楪城主として入城した。
その後、天正備中兵乱で、三村氏も毛利方の小早川隆景を総大将とする2万騎の兵に攻められ、天正3年(1575)楪城は落城し、三村氏も滅びた。
そして、楪城は毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家臣今田経高が在番となった。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系13」参照』

現況・登城記・感想等

楪城は、高梁川と矢谷川に挟まれ北から南へ延びる半島状の尾根上(比高200~240m)に築かれた山城で、北から南へと本丸・二の丸・三の丸を築いた連郭式山城です。
本丸は一ノ壇~四ノ壇の段差のある4郭からなり、二の丸は大小5壇の方形郭で構成されています。
本丸と二の丸は、それぞれ完全に独立した砦のような曲輪で、その間を帯曲輪と称される幅約11m、長さ約80mもの長~い曲輪で結ばれています。
本丸と二の丸の北東側は断崖絶壁になっており、遥か先まで見通しが利きます。恐らく、宇喜多氏もこちら側から攻めてくるのは無理でしょう。
三の丸は二の丸よりかなり低い地にあり、時間がなくて見れませんでしたが、段差のある8つの郭からなるそうです。
そして、二の丸の下の方(かなり下りて行きます)には、明瞭に残る堀切(これは上から見ました)があり、さらに、三の丸の北側には大規模な堀切があるそうです。
冬の夕方の登城となり、残念ながら、三の丸周辺を見ることができませんでしたが、それでも充分見応えのある山城でした。
尚、本丸は新見氏時代、二の丸・三の丸は三村氏により増築されたようです。
(2013/11/24登城して)

ギャラリー

楪城縄張り略図(現地説明板より)
00楪城縄張略図

登城口
登城口は本来の大手である天叟寺辺りからもあるようですが、今回は比高差が少なく、登城道が整備されている北西麓の矢谷から登城しました。
02登城口

大堀切
登城口から、整備された道を7~8分ほど登ってくると、主郭背後の
大堀切が現れる。城内側は高さ20~25mほどの断崖絶壁です。
03堀切

本丸一ノ壇へ到着
登城口から登ること11~12分ほどで本丸一ノ壇へ出る。本丸は、そこから眺めると、まるで古墳のようです。写真手前左が一ノ壇で、その向こうが二ノ壇、三ノ壇となっている。一ノ壇は、東西約50m、南北約20mほどです。
04本丸一ノ壇

二ノ壇
二ノ壇は、ほぼ台形状で、長軸約25m、短辺約11m、長辺約24mで、一ノ壇との比高は約6m、三ノ壇との比高も約6mほどある。写真奥の切岸の上が三ノ壇で、当本丸の中心的な曲輪です。
06本丸二ノ壇

三ノ壇の上へ向かう
本丸の中心的な曲輪である三ノ壇へは、南へ廻って登り、四ノ壇を通って行きます。
07本丸へ

三ノ壇(主郭)
三ノ壇は、本丸の中で最も広い曲輪で、東西約60m、南北約40mほどの、ほぼ長方形で、立派な石碑と本丸の説明板が立っている。以下、説明板より、
本丸は標高490mの所にあり、4つの壇から成る。三ノ壇が主郭になっており、新見時代に築城された古い郭である。北東側面の一部は野面積みに石が積んである。また、要所も石によって補強されている。本丸格壇の西辺下には幅約1~6mほどの南北を貫く武者走りがみられ、その中央において南西へ突き出した花の丸と通じている。なお、本丸は連郭式山城の中心で、城主の館がおかれ、戦いの場合、本陣となった。

08本丸

城址碑
10石碑

三ノ壇から一ノ壇と二ノ壇を見下ろす
12本丸から一・二ノ壇を

三ノ壇からの眺望
三ノ壇から東方を見たものです。遥か先まで見通しが利き、こちらから敵が攻めて来たらすぐ分かりますね。
14本丸からの眺望

花(端)の丸
花の丸は、本丸から南西に突き出した郭で、東西20m、南北50mほどの郭で、守城のとき敵えお誘い込んだ「捨て郭」であったかもしれない。「天正3年(1457)正月8日の巳の刻(午前10時)、富屋大炊助・曽祢内蔵・八田主馬以下の者、敵(毛利方)に寝返り、敵兵を引き入れ花の丸に引き入れた(備中兵乱記より)」(現地説明板参照)
21花の丸

四ノ壇
四ノ壇は、不整形で長軸30m強、長辺約25m、短辺約8mほどで、三ノ壇との比高差は8~10mほどある。四ノ壇の向こうには二の丸と結ぶ帯曲輪(写真奥)があり、西辺の武者走りを通って行きます。 
23四ノ壇

帯曲輪
説明板には「2つの郭を連絡するために、その間に細長く設けられた郭で、楪城では本丸と二の丸を幅約11m、長さ約80mの郭で結んでいる。また、中ほどには栖櫓(くるすやぐら)の基壇もみられる。二の丸からの連絡がすぐでき易く、このような大規模なものは例がない」とあった。
今まで、帯曲輪とは、「曲輪の周りに帯状に設けた曲輪」とばかり思っていましたが、こういう帯曲輪もあるんですねえ。それにしても、長~い曲輪です。その奥の方に見える小山のような土壇は二の丸です。

23帯曲輪

栖櫓基壇
背後に見える土壇は本丸三ノ壇です。
25帯曲輪基壇

二の丸一ノ壇
二の丸は、三村氏時代に築かれたものと思われ、5つの壇から成り、一ノ壇は岩盤が剥き出しの切岸です。
27二の丸

二の丸一ノ壇から帯曲輪を
当写真は、二の丸一ノ壇の上から振り返って帯曲輪を見下ろしたものですが、曲輪の両側は絶壁です。また、本丸が遥か先に見え、帯曲輪が如何に長いか分かって戴けるかと思います。説明板には約80mとなっていましたが、感覚的には100mほどありそうな感じです。
29二の丸から帯曲輪を

二の丸一ノ壇から二ノ壇を
一ノ壇と二ノ壇は、比高5~6mほどあります。
31二の丸

二の丸一ノ壇からの東方の眺望
本丸からと同様、二の丸からの眺望も素晴らしいです。
35二の丸からの眺望

二の丸二ノ壇上
二ノ壇に登って撮ったものです。当写真は、多分、二ノ壇~四ノ壇全体だと思います。というのは、説明板によると、二の丸は5つの壇からなっているとありますが、先程の北端の一ノ壇と、写真奥(南端)の下にある五ノ壇は段差があり分かるのですが、他の区画がどうなっているのかが分かりません。
尚、二の丸は本丸を守る郭で、楪城では一番高い所にあり、当写真の奥の方(南端)に三角点がありました。
33二の丸

二の丸上から三の丸方面を
二の丸と三の丸間は、かなり離れているのがよく分かります。
37二の丸から三の丸を

二の丸五ノ壇
39二の丸

三の丸方面へ下りる
二の丸から三の丸へは、一旦、急傾斜な道を、かなり下りて行くことになります。
41三の丸へ向かう

堀切
二の丸五ノ壇のところから、急坂を下り始めて3~4分ほどすると、下の方に見応え充分な大規模な堀切が見えてきました。しかし、三の丸は、まだまだ下りて行かなければなりません、冬の夕方でもあり、三の丸を見るのは断念して戻ることにしました(/。ヽ)。
51堀切

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コメント

林(2020/06/11)

はじめまして。
初めて、記事を拝見しました。よくお調べになられておられますね。
自分は、すぐ近くに住んでいます。子供の頃は、友達とよく行きました。今の様に整備されず、まだまだ昔の瓦が散乱していました。毛利、尼子の戦いがあったの事で、無くなった武将の供養塔、お墓もあったのですが、石灰石の採取のため、自分所有する塔の山に山上さんと共に移設し、今も地元の方々で毎年、供養とお祭りを5月末に実施しています。

タクジロー(2020/06/12)

林さま
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
供養塔やお墓を移設されたとのこと、素晴らしいですね。本当にあ疲れ様でしたというか、ありがとうございます。
楪城跡は、登城前に想定していたよりも遥かに見応えのある城跡で、感激しました。
ただ、ちょっと時間が遅くなったのと、その前に岩屋城跡をはじめ4~5城登ったあとで、疲れがたまっていたので、残念ながら三の丸まで行けなかったのが、未だに残念に思っています。
もし、機会があれば、また是非登城したいと思っております。
今後とも、宜しくお願い致します。


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