秀吉の水攻めにより孤立・落城、城主清水宗治は自刃
所在地
岡山県岡山市高松
形状
平城
遺構
現状;城址公園他
遺構等:曲輪、堀、水攻め築堤、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
1996/08/16
2007/11/17
歴史等
築城時期ははっきりしないが、もともとは備中松山城を本拠とした三村氏の命により、配下の石川氏が備前に勢力を持ってきた宇喜多直家に備えて築いた。清水宗治は、石川氏の旗下に属していたが、石川氏が滅亡したため、その後は毛利氏方である三原城主・小早川隆景に属し、この高松城主となり東の防備を任務とした。
『以下案内板より』
天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢にかこまれた平城で水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を敢行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備中国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして18ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。
6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師・安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。
時に6月4日巳の刻(午前10時)湖上に舟を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲を舞い、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世の歌を残して45歳を一期として見事自刃した。
現況・登城記・感想等
城跡としては何も残っていないに等しいが、ここがあの秀吉の水攻めの所かと思うと、感慨深いものがある。当時とは地形も川の水量も変わってしまってはいるのだろうが、私にはどうしてこの地形を見て秀吉(献策は黒田官兵衛)が奇策・水攻めを思い立ったのかがよく分からない。確かに低い所ではあるようだが、川の水を持ってきて城を孤立させるには、この低地はかなり広く、相当な量の水が必要で、そう簡単には孤立させられないように思った。改めて秀吉と軍師・黒田官兵衛のすごさが分かった。
(1996/08/16訪城して)
時間が多少余ったので、久し振りにちょっと寄った。光景は前回と同じだが、公園内に資料館が建ち、その横に、な・な・なんと「水攻音頭」なる歌詞板?が建っていた。
資料館にはボランティアの案内係の方がいて、「この辺りは低地であり、昭和年代までは大雨により、毎年のように水に浸かっていた。また、南側を通る国道180号線等の道路は今でも高くすることは出来ないことになっている。」と教えてくれた。
今回は高松城跡から東南へ2kmほどの所にある秀吉が水攻めの時に築いたという堤が一部残る「蛙ケ鼻築堤跡」へも行ってみた。
(2007/11/17登城して)
ギャラリー
蓮沼と本丸
二の丸と本丸の間のこの場所は古来より「蓮池」と呼ばれていた。昭和57年に沼の復元がされた後、400年のときを経て自然に生えた「宗治蓮」と名付けられた蓮と奥の林が本丸跡。
三の丸跡(現妙玄寺)の清水宗治自刃の地に建つ五輪塔
右後方の山が秀吉本陣跡の石井山
資料館とその横に「水攻音頭」の歌詞(左背後が本丸跡)
公園内に資料館が建ち、その横に、な・な・なんと「水攻音頭」なる歌詞板?が建っていた。
舟橋
高松城は平城で、3方を堀に囲まれていたが、この南手には非常に細い道があったが、開戦直前に8反堀を掘り外堀とした。そこへ舟を並べて舟橋(約64m)とし、又退く時は舟を撤去できる仕組で、城の西北の押出し式の橋と共に防備の役を果たしていた。
蛙ケ鼻築堤跡
秀吉が水攻めの時に築いたという堤の一部といわれる。
水攻めの図とその際の堤の図 ~画面をクリックにて拡大画面に~
白の点線のが水攻め時に秀吉により築かれた堤とされるが、●から左上への部分は元々高くなっており、 実際に築いたのは●から右の短い部分だけではという説があるとのことである。
資料館のボランティアの方によると、「この辺りは低地であり、昭和年代までは大雨により、毎年のように水に浸かっていた。また、南側を通る国道180号線等の道路は今でも高くすることは出来ないことになっている。」と教えてくれた。