復元された天守閣
毛利輝元が大坂城を見て築城、関ヶ原合戦後、福島正則が入城も後に没収・転封
別名
鯉城
所在地
広島県広島市中区基町
形状
平城
現状・遺構等
現状:広島城址公園
遺構等:本丸跡に復元天守、二の丸跡に櫓門、太鼓門、多聞櫓等を復興。本丸・二の丸の石塁と内堀(水濠)、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/02/09
歴史等
【城地の選定と築城】
毛利氏は、南北朝時代から郡山城 (安芸高田市吉田町)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日鍬入れ式を行いました。完成は、早ければ文禄元年(1592)、遅くとも慶長4年(1599)までにはと見られるが、正確な年月日は不明である。
【城下の整備】
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後2ヶ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、沿道を中心に町人町の大幅な拡張を図りました。しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619)に芸備2ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までおおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。
【明治以降の広島城】
版籍奉還以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建築物は次第になくなりました。特に、明治7年(1874)には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿も焼失し、大天守、中・裏御門、二の丸を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により、天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は同30年(1958)に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史資料館になっています。(旧天守は大天守の東と南に小天守を連ねた連郭式天守であったが、現天守は大天守のみ復元した。)
『パンフレットより』
【鯉城の由来】
一説には、この付近一帯が己斐浦(こいのうら)と呼ばれ己斐の音が鯉に通じることから呼ばれるようになったものと云われている。広島東洋カープは、この鯉(Carp)に因んで名付けられた。
現況・登城記・感想等
立派な堀に囲まれ、現在の城域も結構広く、おまけに大天守まで復元されているにも関わらず、当日は、その後に回る毛利元就絡みの鈴尾城・猿掛城・郡山城が頭にあったせいか、あまり印象が無く記憶が薄い。
それどころか、天守閣にも入城したはずであるが、その記憶さえあやふやである。憶えているのは、堀の外から見る城はなかなか綺麗であり、本丸には木々が多く天守の写真が撮りにくかったこと位である。
機会があれば、再登城したい城の一つだ。
(2002/02/09訪城して)
ギャラリー
広島城の図
江戸時代の広島城は内堀・中堀・外堀の三重の堀をめぐらし、西側は大田川を天然の堀とする広大な敷地を占めていたが、現在は内堀とそれに囲まれた本丸・二の丸のみが残されて国指定史跡となっている。 ①が本丸、②が二の丸
本丸から撮影