周防 岩国城(岩国市)

元々の天守台傍に復興再建された天守

吉川広家が築城、錦帯橋から見上げる山上に桃山風南蛮造りの復興天守が聳える

別名

横山城

所在地

山口県岩国市横山

形状

山城(標高、比高215.8m)

現状・遺構

山頂の本丸跡に復興天守(古図面をもとに外観復元)・天守台(下部分は現存、上部分は復元)、石垣、空堀、堅濠、流濠の跡が残存。山麓の御土居跡は吉香公園で土塁・水堀が現存。

満足度

★★★☆☆

訪城日

2002/02/11

歴史等

岩国地方には、平安末期「岩国氏」と称する平家に属する一族がいたが、寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いでその地位を失った。
これに代ったのが「弘中氏」で、鎌倉時代末期には周防国守護職・大内氏の武将となっていた。しかし、弘治元年(1555)の厳島戦争で毛利元就に敗れ滅亡した。
戦国時代の末期、中国地方のほとんどを領有し112万石の大大名となった毛利氏も、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ののち、防長2国36万2千石に減封され、月山富田城(12万石)にあった吉川広家も岩国3万石(長州藩の内高に含まれる。のち6万石)に転封された。
広家は、この関ヶ原合戦で毛利を救った立役者とされる(尤も、この広家の行動はとりようによるが)。広家は東軍徳川家康に内通し、石田三成に乗せられて西軍の総大将になった本家・毛利輝元の兵を実質的に戦闘に参加させなかった。条件は所領安堵であったが、戦後はその約束は無視され、家康は毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとした。広家は断固としてこれを辞退し、ひたすら毛利家存続を訴えた。これにより毛利氏は、長門国・周防国二国に減封されるに止まった。
しかし毛利宗家は、吉川氏は関ヶ原の戦いに於いて主家を裏切ったと見ていた。そのために長州藩から冷遇され、独立の藩とは認められずに長く陪臣として扱われた。
岩国に移った広家は、要衝の地「横山」の山頂に要害を、山麓には居館を築くことにし、慶長8年(1603)に山頂の起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成した。横山の三方を迂回する錦川は天然の外堀で、川向うに町割りを行い、城下町が形成されていった。
山頂にそびえる白亜の天守は、桃山風南蛮造りの山城で、藩の象徴として仰がれていたが、元和元年(1615)の一国一城令により、完成からわずか7年で破却されてしまった。広家は、この城は家康も承知のことで、字義通りの一国一城令なら、周防には岩国に一つだから良いではないかと反対したという。幕府が命じたのではなく、関ヶ原の1件を気にする毛利輝元の強引な命令だったという。以来、山下の居館で藩政治が行われた。
第二次大戦後、岩国城再建の動きが活発になり、昭和32年、多額の募金が寄せられ復元されることとなり、昭和36年3月12日起工、昭和37年3月21日竣工された。再建された岩国城は、錦帯橋付近からの景観を考え本丸南側に移動させて造られた。
『「岩国城内パンフレット」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「日本名城古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」等参照』

【錦帯橋】
「日光の神橋」「甲斐の猿橋」と並んで日本の三名橋(日本三奇橋)の一つである。
岩国の城下町を二分するこの川はたびたび氾濫を起こし、幾度となく橋を流失したそうである。歴代藩主や住民にとって流れない橋造りは悲願であった。岩国藩三代目藩主・吉川広嘉は中国の帰化僧・独立禅師から紹介された、西湖に並んだ島から島へと渡された石橋の絵をヒントに、延宝元年(1673)9月30日、初代錦帯橋を建設した。
しかし、翌年5月28日洪水のため、わずか8ヶ月で流失した。しかし、広嘉はこれに屈せず流失の原因を究明し、同年10月に再建した。以後、昭和25年(1950)9月14日のキジア台風で流失するまでの276年間不落を誇った。
また、平成17年(2005)年9月6日の台風14号の豪雨で錦川が増水しその水流に耐え切れず第一橋(岩国市街地側)の橋脚(橋杭)2箇所が流失した。

現況・登城記・感想等

岩国と云えばやはり錦帯橋であろう。その錦帯橋を目の前に、その背後の山の頂上部に天守が見えるという光景は確かに素晴らしい。
しかし、現在の天守閣は、昭和の再建時に錦帯橋の付近から見えるようにと、往時の場所から移動させて建てられたとのことである。
さて、当日は、もう夕方になっていたので、まずは錦帯橋を渡り、山麓の吉香公園を回るだけにした。しかも、錦帯橋は平成の架け替え工事中で第三橋は渡ることは出来なかったが、岩国伝統建築協同組合の大工さんによる、伝統的建築が見学できてかえって良かったのかも?
翌日、朝起きると、何と雪が降り、積もっている。まさか、雪の岩国城になるとは思ってもみなかったが、山上へはロープウェイで行ける。
天守は桃山風南蛮造りで、三重目の上部が下部より張り出した特徴的な形をしているが違和感はない。
天守がもともとあった本丸の北側には、天守台も復元されている(下部分は現存のもので、上部分は復元とのこと)。
天守の上からの眺望は素晴らしく、真下には吉香公園と錦帯橋、そして岩国市街の中を錦川がくねくねとうねって流れ瀬戸内海まで続いているのがよく見える。
(2002/02/11登城して)

ギャラリー

錦帯橋と岩国城
現在の天守閣は、昭和の再建時に錦帯橋の付近から見えるように、往時の場所から移動させて建てられた。当日は、錦帯橋は平成の架け替え工事中であった。
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錦雲閣(下建物)と岩国城天守閣(山上)
錦雲閣は明治18年(1885) に旧岩国藩主・吉川家の居館跡が公園として開放された際、旧藩時代の櫓に似せて造られた絵馬堂である。 
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雪の岩国城
まさか、瀬戸内の岩国で雪景色が見られるとは思わなかった。
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復元された本来の天守台(天守上から見下ろしたもの)
天守がもともとあった本丸の北側に、天守台が復元されている(天守台の下部分は現存、上部は復元したものである)。
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天守閣からの眺望
真下には吉香公園、錦川に架かる錦帯橋、そしてその錦川が岩国市街をくねくねと曲がり瀬戸内海に注いでいるのが見える。
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コメント

戦国山城大好き(2013/03/16)

岐阜城みたいに、ロープウェイで山頂に途中岩国基地
が見えたので、オスプレイ探したけど見れなかった

タクジロー(2013/03/19)

岩国城へは、私もロープウェイで登りました。
オスプレイですか(笑)。
またのご訪問、お待ちしております。

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