本丸に立つ城址碑と背後に本丸南東部の土塁
中讃岐地方で栄華を誇った香西氏18代360余年にわたる要害の城
読み方
かつがじょう
所在地
香川県高松市鬼無町是竹
【アクセス】
県道33号「佐料」バス停そばの信号(勝賀城登山口案内有)から約800m西進(途中から細い登り道になる)すると、坂道の交差点へ出ます。すると交差点の前方右手に説明板が立っています。その説明板を右手に見て、さらに細くなる道を800mほど登って行くと車が2台ほど停めることができるスペースがあります。その脇の獣避けの柵を開けて登城します。県道33号「佐料」バス停そばの信号からは、ただただ道なりに進むだけですが、分かり辛いので地元の方に教えて頂くのが無難です。
所要時間
登城口から本丸跡まで20分強。今回の登城時間は1時間10分でした。
形状
山城(標高364m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、虎口、横堀、堀切、石垣、標柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2014/10/16
歴史等
香西氏の系譜は、保安元年(1120)に讃岐の国司として赴任した中御門中納言藤原家成と綾大領貞宣の娘との間に生まれた綾大夫章隆を始祖とする讃岐藤原氏の後裔である左近将監資村に始まる。
承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府の北条氏に従って戦功を挙げた資村は、阿野・香川郡など中讃の守護職に補せられ(守護職というが不明)、讃岐藤原氏63家の棟梁として勝賀山に城を築き、山麓の佐料に居館(佐料城)を営んだ。以来、香西氏は讃岐の中世史において18代360余年にわたる栄光の歴史をつづった。
室町時代になると、香西氏は讃岐国領主で室町幕府管領の細川氏の臣下として重きを成し、また瀬戸内海の塩飽水軍や村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や港は大いに栄えた。讃岐国領主が細川氏から三好氏、十河氏にうつると、香西氏はこれに従った。
天正3年(1575年)、長宗我部元親の讃岐侵攻に備え、香西氏は新たに藤尾山に藤尾城を築き本拠を移した。
天正10年(1582)8月、香西軍は長宗我部軍を前に藤尾城周辺で最後の決戦を構えた。そして、激戦5日間、いよいよ落城かとみられた時、香川信景の斡旋により和議が成立し、香西氏は長宗我部元親の配下となった。
しかし、3年後の天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐によって、18代香西佳清は野に下り、香西氏18代の歴史は終わりを遂げ、牙城勝賀城をはじめ、佐料城他周辺の城は廃城となった。
『「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
勝賀城は標高364mの勝賀山に築かれた城で、広い山頂部に、本丸を中心に二の丸・三の丸と腰曲輪が梯郭式に配置され、更に北の尾根筋に連郭式に曲輪を配置した縄張です。
本丸は東西約40m、南北60mのほぼ長方形で、周囲を囲む土塁をはじめ、大手虎口や二の丸との喰い違い虎口が良好に残り見応えがあります。
ただ、登城したのがまだまだ草木の元気な10月16日で、藪がひどくて、それなりに整備がされている本丸跡周辺だけ見て戻るハメになり、堀切などを見ることが出来なかったのが残念です。
(2014/10/16登城して)
【余談】
下山してから、地元の方に、次の登城予定先の佐料城跡の場所を尋ねた時に、勝賀城跡へ登った旨言うと、「イノシシに遭わなかったですか?」と尋ねられました。「遭いませんでした」と答えると、「アライグマは?」「ハクビシンは?」と立て続けに尋ねられました。その方によると、勝賀山には、イノシシが多くいて、さらにはアライグマも多く住んでいるのだそうで、山麓の田畑が散々荒らされて困っているのだそうです。登る前に聞かなくて良かったです(苦笑)。
ギャラリー
勝賀城縄張図(勝賀城跡本丸跡の説明板より)
勝賀城は標高364mの勝賀山に築かれた城で、広い山頂部に、本丸を中心に二の丸・三の丸と帯曲輪が梯郭式に配置され、更に北の尾根筋に連郭式に曲輪を配置した縄張です。
勝賀城跡(勝賀山)全容
標高364mの勝賀山は、なかなか存在感があります。この写真は山腹から撮ったもので、山麓からは比高300m近くあります。
【登城記】
登城口
イノシシをはじめ、アライグマなどの獣が多いようで、山麓の田畑を荒らされないように柵があります。今日はMっさんと二人での登城です。柵を外して、さあ登城です。
猫びたい
登り始めて11~12分ほどで「猫びたい」という狭い平坦地へ出ます。説明板等がないので分かりませんが、猫のひたいほどの狭い曲輪ということでしょうかねえ?番所でもあったのかもしれないですね。
ここまでの登り道は、イノシシがほじくり返してフカフカの道でした。余程イノシシが多いようです。尚、本丸へは、ここを右折して登って行きます。
「猫びたい」からの眺望
当城跡からは、あまり眺望の良い場所は少ないですが、「猫びたい」からは、山麓の景色が見下ろせます。
馬がえし
「猫びたい」から細い道を4~5分ほど登ってくると「馬がえし」という場所へ出ます。ここまでの細い道と比べると、多少は広くなっており、馬のきびすを返す場所だったのでしょうかねえ?
最初に見えてくる虎口
「馬がえし」から約4分(登城口から約20分)で虎口が現れます。城の南西部に当ります。
分岐点
虎口を入ると、すぐ分岐点へ出ます。ただ、左方面には虎ロープが張ってあり「勝賀城跡の土塁保全のため、今後、通行しないようにお願いします。右折して大手門から本丸へ入ってください。」とありました。というわけで、右折します。
枡形状の小平坦地
分岐点を右折してから、道なりに左へ廻って行くと、左手に枡形状に土塁が囲む小平坦地が現れます。南方尾根筋を登って本丸に迫る敵に対しての特別な構え、つまり側防(横矢に関わる塁形式)を想定した配置であろうと考えられます。
腰曲輪
本丸の東側には帯曲輪のような細長い平坦地があります。本丸周囲を囲んでいないことから、腰曲輪的といえるでしょう。尚、左側の本丸土塁には、一部、石垣が確認されます。
大手門跡と本丸虎口
大手門跡は、本丸の東側にあったようですが、跡形もありません。大手門跡から本丸虎口へは、ほぼ真っ直ぐなのは不思議なような?
本丸虎口
本丸虎口は平虎口で、本丸内に立つ説明板、城址碑と小さな祠が見えます。
本丸内の祠と城址碑
本丸全景
本丸は東西約40m、南北60mのほぼ長方形で、周囲を囲む土塁が良好に残っています。尚、当写真は南側土塁上から撮ったものです。
鉤形に折れる土塁
本丸虎口の北側の土塁は鉤形に折れ、その内側は深さ2mほどの窪みになっています。一説には水の手ともいうが、位置的に疑問が残ります。
本丸東側から南東部にかけての土塁
本丸周囲を囲む土塁は、なかなか見応えがあります。当写真は本丸内から撮ったものです。
本丸南東部の土塁
当写真は本丸南側の土塁上から撮ったもので、右手前の土塁の右(外)側が、先程見た「枡形状の小平坦地になります。
本丸南西部から西側にかけての土塁
当写真は本丸南側の土塁上から撮ったものです。西側土塁の外側は帯曲輪状になっているようですが、強烈な藪で全く分かりませんでした。
本丸から二の丸へ続く喰い違い虎口
本丸北側には二の丸への喰い違い虎口が良好に残っていましたが、強烈な藪で・・・( ̄ー ̄;。
二の丸
喰い違い虎口の藪の中を突進して二の丸跡へ向かいましたが、二の丸跡は、この薮です。とても突入する勇気はありませんでした。
本丸東部の土塁を外側から
一旦、本丸の東側にある虎口から出て、本丸東側土塁に沿って三の丸や二の丸方面へ・・・。当写真は本丸北東部外側から本丸東側の土塁を撮ったものです。土塁は高い所では3m近くあります。
本丸の北東の曲輪
本丸の北東側下には、説明板には名前が載ってないのですが、周囲を良好に残る土塁に囲まれた曲輪があります。なかなか良好に残っているようでしたが、何せ藪がヒドクて・・・( ̄ー ̄;。曲輪の中央には大きな岩がありましたが、何かは分かりませんでした。
本丸と二の丸間
左側が本丸、右側が二の丸で、この間の堀底道を進むと、先程見た喰い違い虎口へ出ます。
二の丸南東部の石垣
二の丸南東部には、僅かながら石積みが確認出来ました。この写真右手前方が三の丸になります。
三の丸
三の丸跡も強烈な藪で・・・( ̄ー ̄;。
北方面への道は薮・薮・薮
北尾根上に築かれた曲輪群はともかく、三の丸の北側にあるらしい堀切を見ようと思い、二の丸と三の丸の間の道を北へ向かいましたが、写真のように強烈な藪に阻まれてしまい、あっさり断念しました(/。ヽ)。