讃岐 十河城(高松市)

十河城跡の称念寺の山門

「鬼十河」と呼ばれた十河一存の城

読み方

そごうじょう

所在地

香川県高松市十川東町932、称念寺
【アクセス】
ナビで住所指定すれば辿り着くと思います。県道30号線「十川東町」交差点を800mほど南下すると右手に「称念寺 十河城跡 →」の看板があります。そこを入り西進した突き当りが称念寺です。称念寺の山門前に駐車場があります。

所要時間

今回の見学時間は15分弱でした。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 称念寺
【遺構等】 曲輪、標柱、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2014/10/16

歴史等

十河城主の十河氏は、景行天皇の末流で、山田郡を代々支配した植田氏の支族で、南北朝時代の貞治元年(正平17年、1362)に細川清氏が白山で挙兵した時に与した。
のち、数代を経た享禄年間(1528~32)には十河景滋に子供がなく、阿波の三好長慶の弟を養子に迎えて「一存(かずまさ)」と呼んだ。一存は「鬼十河」と恐れられ、讃岐一円を制した。
その後、一存の子義継を三好長慶の養子としたり、三好義賢(実休)の第2子・存保に十河氏を継がせたりと三好氏と十河氏の結束が固まっていった。天正5年(1577)には、三好義賢の長子・長治が井沢頼俊・一宮成助らによって殺された後、三好氏に継子がなかったことから存保が三好氏を継ぐことになった。
天正10年(1582)土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻があり、存保のいた阿波勝瑞城は落とされたが、同年の十河城での戦いでは地の利を生かしてよく奮戦したので、元親も退かざるを得なかったという。
しかし、同12年(1584)、元親は再び態勢を立て直して東讃岐を侵略し、最後に十河城に迫り、遂に落城した。
その後、十河城には長宗我部親武が入り、讃岐は長宗我部元親の支配下に入った。
しかし、天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国征伐で敗れると、仙石秀久が讃岐領主となり、存保も2万石を与えられて、再び十河城主となった。
しかし、翌14年(1586)に、存保は仙石秀久と共に島津氏征伐のために九州へ出陣して戦死し、十河城も廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系15」参照』

現況・登城記・感想等

「鬼十河」と呼ばれた十河一存の城ということで、ほとんど遺構は残っていないことは知っていましたが、今回の讃岐攻めでは是非登城したいと思っていました。
十河氏ゆかりの寺「称念寺」の境内を中心とした台地一帯が十河城跡で、称念寺が本丸跡です。
往時とはかなり地形が変わっているとは思いますが、南に大手があり、西に鷺池、東は傾斜地といった要害の基本地形に変化はないようで、寺の山門前からは眼下に景色が広がり、ここがかなりの高台にあることが分かり、それなりに要害の地なのを納得します。
(2014/10/16訪れて)

ギャラリー

十河城跡(称念寺)への案内板
県道30号線「十川東町」交差点を800mほど南下すると右手に「称念寺 十河城跡 →」の看板があります。そこを入り、西進すると称念寺の山門に突き当たります。
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称念寺山門とその前に立つ城址碑
山門前には城址碑が立っています。山門は鐘楼も兼ねています。
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山門前から見下ろす景色(東方面)
山門前からは眼下に景色が広がり、ここがかなりの高台にあることが分かり、それなりに要害の地なのを納得します。山門の正面(東側)からは下り坂(写真右)が延びているが、その両側は数段になっており、段曲輪跡の地形のようです。
尚、細川清氏が挙兵し、十河氏も参陣したという「白山の陣」も遥かに見はるかすことができるそうですが、それがどれかは分かりません。
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山門前から見下ろす景色(北東方面)
北東方面も周囲と較べるとかなら高台にあり、遠くまで見渡せます。
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十河一族墓参記念樹
山門前の駐車場隅には十河一族墓参記念樹の豊後梅が植えられています。
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鷲池
寺の裏(西側)には墓地が2段になっており、上段の墓地には「十河家の墓」がありましたが、そのいずれかは城主十河家の墓のようですが分かりませんでした。墓地の西側には、大きな池(鷲池)が往時のまま残っています。
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