楠目城の詰ノ段と二ノ段を断ち切る大堀切
一時は長曽我部氏を倒し、香美郡一円を支配した山田氏の県内屈指の中世山城
読み方
くずめじょう
別名
山田城
所在地
高知県香美市土佐山田町楠目
【アクセス】
鏡野中学校の北東の山が城跡で、中学校のグランドの横(東側)に町民グランド駐車場があります。
登城口は山の西側と南側からの2ヶ所あります。私は、西側から登城し、南側へ降りて来ました。西側の登城口は、中学校の東側の道を200m程北上すると、道路右手に城の標柱があります。この標柱脇の細~い路地を山へ向かって行き、山中へ入り、道なりに進めば城跡へ行けます。南側の登城口は、駐車場の少し北側の道路を東へ300mほど行ったところから左へ曲がると登城口があります。
鏡野中学校:香美市土佐山田町楠目1973、0887-53-4131
所要時間
城跡の西側から登城の場合、駐車場から二ノ段まで16~17分。今回の見学時間は約1時間。
形状
山城(標高122.3m、比高約60m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀(横堀、堀切、竪堀)、標柱、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2015/02/18
歴史等
一条忠頼の家人であった中原秋家が、建久4年(1193)に宗我部郷と深淵郷の地頭に就任した。忠頼の子・秋道の後見役でもあった秋家は、秋道に2つの郷を譲り、自らは楠目城に居城して山田氏を名乗った。
南北朝時代、北朝方に組して時局を乗り切った山田氏は、戦国時代の永正5年(1508)には本山氏・吉良氏・大平氏らと長曽我部氏の居城岡豊城へ進軍し、兼序(元親の祖父)を討った。
そして、山田元義のときには勢力を伸ばし、香美郡一円にその支配を及ぼし、4千貫の領地を有したといわれる。
しかし、元義が猿楽や能などを好むようになり、政が疎かになった。そして、元義を諌める重臣たちも蟄居させられた。
楠目城の西方・岡豊城に拠る長宗我部国親(元親の父)は、この事態を見逃さず、天文20年(1551)前後、重臣の一人を計略で倒し、それを機に楠目城への奇襲攻撃に打って出た。このとき、蟄居中の重臣たちも応戦したが、楠目城は落城し、韮生(現香美市香北町)に逃げ落ちた元義は国親に降伏した。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
楠目城は、高知県内屈指の大規模な中世山城です。
最大の見どころは、何と言っても巨大な空堀や堀切でしょう。なかでも、詰ノ段と二ノ段を断ち切る大堀切と詰の段の北側の大空堀は圧巻です。
登城前、多少は期待していましたが、これほど壮大なものとは想像だにしていなかっただけに、驚きともに感激しました。
詰ノ段と二ノ段、さらにはその周囲の腰曲輪なども良好に残り、二ノ段周囲をめぐる土塁や、詰ノ段西下の腰曲輪北側の土塁等々、見どころ満載の城跡です。
ただ、城跡内には案内板等もなく、雑木と竹薮の真っただ中を歩いていて見落としがあった上、全体像が掴みづらかったのが残念です。
帰って来てから、香美市役所にお願いして土佐戦国の山城の縄張図が載った冊子「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」を送って戴きましたが、登城前にゲットして登城するべきでした(/。ヽ)。
(2015/02/18登城して)
ギャラリー
楠目城縄張略図
下手糞ですが「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」の縄張図を参考にして描いてみました。
土佐の城は、本丸・二の丸・三の丸を詰ノ段・二ノ段・三ノ段というように呼ぶようです。楠目城は、山頂部に詰ノ段を構え、その南方に堀切を挟んで二ノ段を構築し、二ノ段の西方に茶ガ森と呼ばれる曲輪があります。
【登城記】
土橋?
鏡野中学校の東側の道を200m程北上すると道路右手にお城の標柱があります。この標柱脇の細~い路地を少し歩いて行くと土橋が現れ、それを渡って山中へ入って行きます。
堀底道
山中へ入って行くと、いきなりクネクネと曲がる堀底道です。もう既に城域に入っているようです。あとで、分かったのですが、この右前方に茶ガ森と呼ばれる曲輪跡があるようです。
空堀①
山中へ入って、3分ほど道なりに歩いて行くと、左前方に空堀が見えて来ます。見応えのある空堀ですが、あとで縄張図と照らし合わせても、この空堀がどれなのか未だに分かりません。
空堀②
空堀は、左奥へ延びていますが、道は右へ曲がっています。ひょっとすると、この空堀は、詰ノ段北側の大空堀、或いは大空堀を挟んで北側にある土塁の北側の空堀へと延びているのでしょうか??
二ノ段への登り坂
左上の山に沿って歩いて行くと、左上に祠があり、その手前に上へ登る道(写真石段左側)があるので、ここを登って行きます。尚、登らずに真っ直ぐ進むと、南側登城口へ出ます。
虎口
道なりに(とはいっても、はっきりした道ではありません)登って行くと、両側に高い土塁のある虎口のようなところへ出ます。その正面奥には城壁が見えます。この城壁は、二ノ段下の腰曲輪の城壁です。城壁手前は左右ともに進むことができますが、我々は右へ曲がって行きました。
二ノ段南下の腰曲輪
二ノ段の南下には腰曲輪が設けられています。
二ノ段南虎口
腰曲輪から城壁に沿って廻りこむように登って行くと、二ノ段への虎口が現れます。
二ノ段
当写真は、二ノ段南虎口から撮ったものです。二ノ段は東西最大長30m弱、南北最大長約36mほどで、周囲を土塁が取り囲んでいます。尚、この南虎口の他に北西部にも虎口があります。
二ノ段周囲を囲む土塁(南虎口から南東部を)
土塁の高さは、曲輪内から2mほどあり、上部幅は広い箇所で3m、基底部の幅は広い箇所では10mほどあります。
二ノ段周囲を囲む土塁(北側)
詰ノ段と二ノ段を断ち切る堀切を見下ろす
二ノ段の北側の土塁上に登って下を見下ろすと、巨大な堀切がありました。本当にスゴイですw(*゚o゚*)w。
二ノ段北西虎口から下りて行きます
二ノ段北西虎口から北へ下りて行くと、左前方に平坦地(曲輪跡)が見えます。
曲輪跡
竹藪になっていますが、二段になった広~い曲輪跡です。
詰ノ段と二ノ段を断ち切る大堀切
二ノ段北西虎口から下りた右側には大堀切が現れます。深さ5m、中央部分の上部は17m、長さ33m余りある、この大堀切は迫力満点です。これほどとは想像だにしていませんでした(*^_^*)。
詰ノ段へ向かう
大堀切の西端を通り、堀底道を通って、詰の段へ向かいます。この両側上も曲輪跡です。
詰ノ段下の腰曲輪
堀底道を登ると、詰ノ段の下、東・南・西を取り囲むように設けられた腰曲輪へ出ます。当写真は、南西部から西側の腰曲輪を撮ったもので、右上が詰ノ段になります。この詰ノ段の西側の腰曲輪は、2段になっています。
詰ノ段西下の腰曲輪と土塁
詰ノ段にそって北へ進むと、正面に土塁が現れます。
詰ノ段西下の腰曲輪の土塁
詰ノ段への登り口が分からなかったので、土塁上から登ることしました。
詰ノ段北側の大空堀
土塁に登り、左下を見ると、これまたスゴイ空堀が見えます。先程の、詰ノ段と二ノ段間の堀切と同じ、或いは、それ以上に大規模かもしれませんw(*゚o゚*)w。
詰ノ段北面の土塁
詰ノ段へ登ると、左前方に土塁が現れます。土塁の規模は、二ノ段と同じほどで、高さ2mほどあります。
詰ノ段(写真右は北面の土塁)
詰ノ段は角丸矩形の形をしており、東西36m、南北は長い箇所で21.5mあります。詰ノ段は往時は周囲を土塁が囲んでいたようで、北面に残る土塁以外の3面にも著しく破壊された土塁跡があります。
詰ノ段北側の大空堀①
詰ノ段を見た後、急斜面を下りて、北側の大空堀下へ下りて行きました。多くの部分が竹藪になっていますが、その圧倒的な迫力を感じることができました。
詰ノ段北側の大空堀②
大空堀は、詰ノ段の北側から大きな円を描くように東の方へ廻っているようでした。空堀の外側の土塁(写真左)の高さも凄いです。10m近くあるでしょう。
大空堀の北側の土塁
四苦八苦しながら、土塁上へ登って見ました。かなり幅の広い土塁です。否、土塁というより曲輪といった方が正しいかもしれません。
土塁上から堀底を
土塁上から堀底を撮ってみました。堀底に立つMっさんを見れば、その急激な斜面と深さが分かって戴けると思います。
南側の登城口
帰りは、もう一つの登城口へ下りていきました。登城口には、まるでお寺かと思うような立派な個人宅があり、その脇(写真右)が登城口です。登城口には小さな説明板(写真右端)が立っています。