土佐 久礼田城(南国市)

詰の段下北東部の空堀(右上が詰ノ段、左は二ノ段)

長宗我部氏一族の久礼田氏の山城、城ゴルフ場の一画に城跡が良好に残る

読み方

くれだじょう

所在地

高知県南国市久礼田字中山田、城址公園
【アクセス】
パシフィックGCのフロントの向かいの小山が城址で、ゴルフ場の駐車場を拝借しました。
パシフィックGC:南国市才谷778、03-0000-8451
*ゴルフ場の駐車場を拝借するのは少し気が引けたのですが、城址公園はゴルフ場も援助しているようで、停めても構わないようでした。感謝・感謝です。

所要時間

ゴルフ場の駐車場から詰の段まで3~4分、今回の見学時間は17~18分でした。

形状

山城(標高168m)

現状・遺構等

【現状】 城址公園(ゴルフ場の一画)
【遺構等】 曲輪、空堀(横堀、堀切、竪堀)、土塁、碑(石柱)、遺構案内板、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2015/02/18

歴史等

久礼田氏の先祖は長宗我部氏と同じ秦氏であるといわれ、長宗我部三代忠俊の弟忠孝が分かれて久礼田に住み、久礼田氏を名乗ったのが始まりとされているが定かではない。また、築城年代も不明である。
元親の時代になって久礼田城の城主として久礼田定祐が登場してくる。久礼田定祐は、元親とは一族の間柄でもあり、元親の信頼も厚く重臣として活躍したことがうかがえる。長宗我部検地帳によると、久礼田村の検地地積70町のうち過半数を領し、近隣にもかなりの土地を所有している。また定祐は「土佐物語」や、「元親記」の中に連歌の上手、和歌の達人とも記述されている。
長宗我部元親は、天正2年(1574)土佐一条家4代兼定を豊後に追放したのち、その子内政を大津城に迎え、自分の娘を内政の妻にした。そして、大津城で政親が生まれた。
しかし、天正8年(1580)の波川玄蕃による謀叛に加担した疑いにより、元親は内政を伊予に追放した。
元親は一条家の家督を継いだ幼い政親を久礼田定祐の一族に養育させた。母と共に久礼田に移り住んだ政親は「久礼田御所」と呼ばれた。
政親は慶長5年(1600)長宗我部氏の滅亡によって、20年を過ごした久礼田から京か大和に退去したといわれているが、消息は不明である。久礼田城の歴史と共に土佐一条家もここに消え去った。
久礼田城は、詰めを中心に部分郭が隣接する連立式山城で、中規模クラスの相当堅固な構えであり、戦国動乱期には本山氏の南進を拒む重要な役割を担っていた。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

ゴルフ場の一画にある小山が久礼田城跡だというので、登城前はあまり期待はしていませんでした。
ところが、主郭部はほとんどが完存で、詰ノ段・二ノ段の曲輪をはじめ、土塁や空堀・竪堀等々の遺構が良好に残っている上、整備が行き届いていて驚きました。
久礼田部落とゴルフ場や高知NPO地域社会づくりファンドによる援助で保存されているそうですが、感謝・感謝です。
(2015/02/18登城して)

ギャラリー

久礼田城縄張り略図(現地説明板より)
長径100m×短径50m程の小規模な城跡ですが、周辺部がほとんどゴルフ場のため改変されているでしょうから、往時はこの周囲にも多数の曲輪などがあったことでしょう。
00久礼田城縄張図

久礼田城跡全景
安芸城跡を訪れたあと、久礼田城跡があるパシフィックゴルフ場を目指してくると、正面に高~い山の中腹にゴルフコースが見えてきました。そして九十九折れの坂道を随分登ってくると、ゴルフ場の駐車場に辿り着きます。すると、駐車場の入口右手にちょっとした小山が残っています。それが、久礼田城跡です。ゴルフ場の駐車場に車を停めるのは、少し気が引けましたが・・・。登城口は、写真を左へ廻ってすぐのところにあります。
01久礼田城主郭部全景

登城口
登城口には、縄張図付きの説明板が設置されています。その説明の最後に、「久礼田城跡は、久礼田部落とパシフィックゴルフ場の援助によって保存されています。なお今回の整備は「高知NPO地域社会づくりファンド」の助成によるものです。」とあります。感謝とともに、駐車場に停めても問題ないんだと勝手に解釈し、安心しました。
03登城口

二ノ段下の空堀
登城口から登ると、すぐに見事な空堀と土塁が現れます。この空堀は、主郭部周囲をめぐる空堀で、その外側には土塁が設けられています。そこには「←詰ノ段 二ノ段」という看板が立っていますが、この空堀全体を見ようと思い、堀底を反対方向へ向かって行きました。
05二ノ段下の空堀

主郭部周囲をめぐる空堀
堀底を進むと、右上にプレハブ小屋が建っていましたが、城跡とは関係ないようでした。ただ、この辺りは土塁の幅が広いようで、往時は何かあったのかも?
07北東部空堀

二ノ段下の空堀
一旦、先程のところまで戻り、さらに通り過ぎて二ノ段へ向かいます。そして振り返って撮ったのが、この写真です。左上が二ノ段で、高い所では高低差5mはあるでしょう。尚、写真右の土塁上からは、ゴルフコースが見えます。
09二ノ段下の空堀

二ノ段への急な階段
土塁上を時計回りに歩いて来ると、正面に急な階段が現れます。二ノ段下の空堀は、この先は左下へ竪堀となって山裾へ落ちて行っているようです。
11二ノ段への坂

竪堀①
階段を登り切ったところの左下に幅1mほどの溝が見えました。溝は2筋(もう1筋は、写真手前にあります)あり、奥の筋は横堀となって二ノ段下へ少しだけ延びています。この溝は縄張図を見てみると、竪堀のようです。写真奥上は主郭で、左下は帯曲輪です。
14竪堀

竪堀②
竪堀は、山裾まで落ちていってます。
15竪堀2

詰ノ段と二ノ段
さらに少し登って行くと、正面に詰ノ段、その下に二ノ段が現れます。
詰の段が

二ノ段
二ノ段は、あまり広くありません。二ノ段と詰ノ段との間には空堀(写真左)が設けられています。
19二ノ段

詰の段下(二ノ段との間)の空堀①
詰ノ段下の空堀は二ノ段側(手前)との高低差は大したことはありませんが、詰ノ段側とはかなりのもので、登るのは無理でしょうね。
詰の段下の空堀

詰ノ段下の空堀②
空堀は詰ノ段の北東部までめぐり、途中から帯曲輪になっています。
空堀

詰ノ段(虎口から撮影)
詰ノ段は、周囲を土塁がめぐっています。
23詰ノ段

詰ノ段北東部
詰ノ段の北には城址碑が建てられています。右奥の土塁が凹んだところが虎口です。
24詰ノ段虎口を振り返る

詰ノ段
詰ノ段は卵形をしています。周囲をめぐる土塁は北東側(写真右側)が高く南西側は低くなっています。
25詰ノ段

詰ノ段北東部の土塁
詰ノ段北東部の土塁は、高いところでは2mほどあります。
27詰の段北東部の土塁

詰ノ段(南側)からの眺望
詰ノ段南側からは、土佐国府が見えます。また、右奥の山の向こうには、僅かに岡豊城跡も見えます。
30詰ノ段からの眺望

詰ノ段南下の腰曲輪へ
詰ノ段のすぐ南下には狭い腰曲輪があります。
31帯曲輪へ

帯曲輪
さらに、腰曲輪の下には、詰ノ段周囲をめぐる帯曲輪が設けられています。当写真は、帯曲輪の南東部分を撮ったもので、その遥か向こうにパシフィックゴルフ場のコースが見えます。
33帯曲輪からゴルフ場を

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