土佐 朝倉城(高知市)

詰ノ段北西下に残る石組みの井戸跡

土佐中原に進出した本山氏が、支配体制を維持するために築いた壮大な山城

別名

重松城

所在地

高知県高知市朝倉丁
【アクセス】
JR土讃線「朝倉駅」から国道56号を400m程南下して歩道橋を過ぎると、すぐに右に入る道(城への案内板有り)があるので右折します。道なりに細い坂道を上がっていくと200m程でT字に突き当たるので、そこを右折します。そのまま100m程進むと右手に北城山公民館があり、その横に城の縄張図があります。公民館奥から道なりに右の方へ廻るように200~300mほど登って行くと東登り口があります。尚、これとは別に、公民館脇を更に登って行き突き当たったところを右手へ行くとそのまま城跡へ入る西登り口もあるようです。
問題は、周囲に駐車できるところが無いことです。公民館脇に車1台分ほど停めることができるスペースがあるのですが、駐車禁止と記されています。幸い、私は公民近くを散策していた方の家の駐車場に停めることができましたが・・・。

所要時間

東登城口から詰ノ段まで約10分、今回の見学時間は30分でしたが、2時間近くは欲しいところです。

形状

山城(標高102m、比高約90m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、空堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★☆(但し、じっくり見て廻れば★★★★★は確実でしょう)

訪城日

2015/02/19

歴史等

戦国時代に長岡郡北部で本山城を拠点として勢威を誇った本山氏は、茂宗(号を梅慶)の時の天文年間(1532~1555)に、土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的、地理的に重要な朝倉に城(朝倉城)を築き、天文9年(1540)に移った。
天文24年(1555)茂宗が死去すると、嫡子茂辰が跡を継いだ。
永禄3年(1560)から、長宗我部氏との激突が数度に及んだが、勝敗は決しなかった。しかし、茂辰は不利な形勢と朝倉城死守の困難をさとり永禄6年(1563)1月城を焼いて本城本山城に退去し、廃城となった。
『「現地説明板」。「日本城郭大系15」参照』

現況・登城記・感想等

朝倉城跡は、おそらく土佐随一の規模と技巧を備えた中世城郭でしょう。
一時、詰ノ段周辺を畑として開墾されたとはいえ、曲輪・土塁・石垣・空堀・虎口、さらには石組み井戸などの遺構が残り、それら全てが見応えがあります。
ただ、城跡のある山の中腹から山麓にかけては民家が密集し、道路も狭くて駐車できそうな場所が全くありません。幸い、近くを散策している方が、30分だけなら、その方の家の駐車場に停めても良いと仰って下さったので30分限定で廻ることができましたが・・・。
しかし、実に大規模で見どころの多い城跡です。30分では、とても全てを見て廻ることができず、全体像を掴み切れないままの下城になってしまいました。
それでも、かなりの見応えを感じました。じっくり見て廻れば、満足度は★★★★☆でなく★★★★★であろうことは容易に想像できます。
(2015/02/19登城して)

ギャラリー

朝倉城鳥瞰図(北城山公民館脇の案内板より)
00鳥瞰図

朝倉城縄張図(詰ノ段の案内板より)
01縄張図

【登城記】
東登り口
朝倉城跡への登城口は3ヶ所あるようです。私は、散策していた地元の方の家の駐車場に30分間限定で車を置かせて戴き、そこから少し道なりに登って行った東登り口から登城しました。ここは、既に山麓からかなり登り切ったところですが
大急ぎです。
03登城口

土橋
登り始めると、何箇所かに平坦地や石垣が見られましたが、畑の開墾などで、かなり改変されているようなので、往時のものかどうかは分かりません。東登り口から4分ほど登って行くと土橋が現れました。
05土橋

竪堀①
土橋横の竹藪を覗くと、竪堀が見えました。これは鳥瞰図と照らし合わせても明らかに竪堀です。
07竪堀

竪堀②
土橋を渡りきり、山に沿って歩き始めたところから下を見下ろすと、竹が密集していますが、先程の堀切が山裾の方へ落ちていっているのがよく分かります。
08竪堀

虎口①
さらに少し進むと、左手に堀底道が・・・。当城の東側を守る、最初の虎口のようで、
手前に案内板が設置されています。
11虎口

虎口案内板
一般的な虎口の説明がされているようで、必ずしもこの場所の形状を案内しているのもではなさそうです。
IMG_4437

土塁と空堀(曲輪?)
虎口から登って行くと、左側は手前に土塁を備えた空堀(曲輪?)のようになっておりました。写真右上は三ノ段です。空堀(曲輪?)の奥には石垣が築かれていましたが、往時のものかどうかは分かりません。
土塁

虎口②
堀底道をさらに登って行くと、石垣と石畳の道が・・・。虎口の両側上は三ノ段で、正面の切岸は二ノ段の切岸です。
13虎口

振り返って虎口を
虎口を登り切ってから振り返って撮ったものです。平虎口から枡形虎口へ進歩する中間的な感じで、攻め上ってくる敵を、両側上と、正面から攻撃できるようになっています。
両側の平坦地は三ノ段です。
15虎口

三ノ段
三ノ段跡は竹藪になっています。時間さえあれば、奥の方まで入って行きたいところですが、何しろ、30分限定の登城なので・・・(/。ヽ)。
17三ノ段

二ノ段と詰ノ段
三ノ段から右へ廻って行くと、二ノ段の向こうに詰ノ段の切岸が見えて来ます。
21二ノ段と詰の段

詰ノ段へ・・・
詰ノ段と二ノ段の間に階段が設けられています。写真右上が詰ノ段です。
23詰ノ段への階段

詰ノ段と二ノ段間の空堀?
詰ノ段への階段を登って行くと、二ノ段との間に空堀のような溝が・・・。右上が詰ノ段。
25詰の段切岸

詰ノ段への北東虎口
詰ノ段への虎口は平虎口ですが、結構急斜面です。
27詰の段虎口

詰ノ段
詰ノ段は、かなりの広さがあります。案内板によると、開墾され改変されて畑になっていた時期があるそうですが、東面の土塁は残っています。
29詰の段

詰ノ段東面の土塁
31詰の段土塁

詰ノ段の石碑と説明板等
詰ノ段の北西部には、祠が祀られ、その前には、石碑と説明板、さらには縄張図が描かれた案内板が立っています。
33詰の段石碑ほか

詰ノ段南西部の虎口
詰ノ段には南西部にも虎口があります。この虎口からは、急斜面に階段が設けられ、その左側には土塁(写真左)が確認できます。
35詰の段南西虎口

詰ノ段南西部から延びる土塁
詰ノ段の南西虎口脇から南西へ向かって延びる土塁は結構大掛かりなものです。土塁の向こう(左)側は平坦地(竹藪)になっていましたが、二ノ段のようです。
37土塁

三ノ段??
詰ノ段の南西虎口から降りたところは、窪みになった竹藪になっています。てっきり空堀跡かと思いましたが、縄張図と照らし合わせると三ノ段のようです。そして、右に見える石垣は、畑地にされた際に築かれたもののようです。
この辺りから、どうも何処か何処やら分かりません( ̄ー ̄;。
39三ノ段

平坦地ですが??
当写真の石垣が設けられた平坦地は、縄張図と照らし合わせてみると、三ノ段である窪地の竹藪の北側に当ります。どうやら、一時、畑地として活用された跡らしいです。
41

西詰ノ段?
平坦地の奥に、土塁のような地を確認しましたが、どうやら土塁上が西詰ノ段のようです。時間がなくて、確認できず、この周辺がどうなっているのか全く分かりません(/。ヽ)。
43西詰の段

西登り口への出入口(虎口)
三ノ段跡と思われる竹藪と平坦地の間の道は、南西下へ延びていますが、どうやら西虎口のようです。時間がなくて、ここから引き返しました。
47西登り口への道

石組み井戸跡
下城は、詰ノ段の北側を通ると、丸石で組まれた井戸がありました。背後の石垣は、井戸(左)のところから北(写真右)へとのびて左(西)へ曲がって築かれています。現在の井戸は、昭和21年(1946)の南海大地震で周りの石積みが崩れたために地元の人が積み直したのだそうです。
51井戸

今も水を称える井戸
井戸の底を覗くと、今も水を湛えていました。この井戸水は、渇水期でも枯れることなく、朝倉城が廃城になった後には、農業用水として重宝がられたそうです。
53井戸

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