正殿跡に建つ石碑群(背後の山は大野城址)
「遠の朝廷」として繁栄を誇った、いにしえの西の都
別名
都府楼
所在地
福岡県太宰府市大字観世音寺坂本
形状
都城
現状・遺構
【遺構等】礎石(現存・復元)、築地(復元)、堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
歴史等
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統括していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大級規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、7世紀後半に堀立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼討ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。現在見ることができる礎石は、この再建築のものである。
「遠の朝廷」として繁栄を誇った大宰府も平安時代末期にはその役割を終え、田畑と化した。
『現地説明板より』
訪城日
2007/01/03
現況・登城記・感想等
今日は、大宰府天満宮・大宰府政庁跡・大野城址・水城跡を廻ろうと計画していた。
ところが、何と今日は正月3日で大宰府天満宮が初詣で超混み合うことを忘れていたw(*゚o゚*)w。ましてや、天満宮といえば学問の神様で、受験者やその親も多いことだろう。何と愚かなミスをしてしまったんだ。
しかし、福岡空港でレンタカーを借りて、混みあう道路を何とか大宰府政庁跡まで何とか辿り着くことが出来た。
大宰府政庁跡は千年以上もの歳月を経ているにも拘らず、見事に発掘保存されていた。
中でも、正殿部分の礎石は「藤原純友の乱」後のものとは云え、10世紀代の現存礎石である。すごいとしか云いようがないではないかw(*゚o゚*)w。
一方、今日は道路が混み合ってとても行けそうにない(今回の最大の目的地であった)大野城址の四王子山が正面にくっきりと見えるのは皮肉かなあ?
尚、私は菅原道真はこの政庁に流されて来たのかと勘違いしていたが、ボランティアのおじさんの話によると、左遷されてきた道真の位はもっと低くて、ここには入れて貰えず、もっと遠く南の方に住み、待遇も悪くて2年ほどで亡くなったということであった。(勉強になりました)
(2007/01/03訪ねて)
ギャラリー
大宰府政庁正面から
背後の山は四王子山即ち大野城址です。
推定大宰府庁正門礎石
とにかく、本当にデカイ! 他の礎石とは比べものにならないですw(*゚o゚*)w
昭和57年の御笠川(みかさがわ)改修工事のとき、その川床から発見された。縦横2m近くあり、政庁の中門・南門のものとは比較にならず、正殿のものよりもさらにひとまわり大きい。
発見地点は政庁南門の南220m、政庁中軸延長上に位置することと、この礎石の巨大さから想定すると、ここに府庁の正門(都の朱雀門に相当)があった可能性は充分考えられるとのこと。