複雑にめぐるクリークと島々(曲輪)
佐賀平野特有の濠(クリーク)を利用した大友宗麟の臣犬塚氏の水城
読み方
なおとりじょう
所在地
佐賀県神埼市千代田町直鳥535番地1、直鳥クリーク公園
光顕寺の西側一帯が城跡で、直鳥クリーク公園になっている
光顕寺:神埼市千代田町直鳥512−2 、0952-44-5309
形状
平城(水城)、環濠集落
現状・遺構等
【現状】 直鳥クリーク公園
【遺構等】 曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2012/11/12
歴史等
直鳥城の成り立ちは、弥生時代に有明海沿岸が後退した頃からこの地に人々が定住を始め、中世にはほぼ現在に近い形の集落が形成された。初めは小規模だったが、16世紀に犬塚氏の支配下に入ってからは除々に「館」として要塞的な環濠集落として発展を遂げていったと考えられている。
江戸時代に編纂された歴史書や軍記物(「北肥戦誌」など)に、以下のような城の沿革が書かれている。
築城は、犬塚家貞の四男家久で永正年間(1504~1521)とされる。
永禄3年(1560)、2代目城主家清は、大友宗麟の命により、筑後の諸将と共に筑前侍島の筑紫惟門を攻めたが、逆に敗走し、家清とその嫡男尚家は宝満岳で戦死した。
こののち、3代目城主鎮家は、西犬塚(鎌田江)の所領を相続して、鎌田江城に居住し、大友方として龍造寺氏と対峙していた。
元亀元年(1570)、大友親真を主将とした3万の軍勢が佐賀城を攻めたが、龍造寺氏の家臣鍋島直茂の奇襲戦法「今山の夜討ち」により大敗した。
翌2年(1571)の春、佐賀城の龍造寺隆信は元直鳥城主鎮家の居城鎌田江城を攻め、鏡家はこれに敗れて筑後に落ち延び、再び直鳥城に戻ることはなかった。
以降、直鳥城の周囲に発生していた「城下町」に相当する集落は、城跡を取り込んで環濠集落の郷村として継続し、濠に囲まれた「環濠集落」の景観が江戸時代を通して現在まで残っている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
直鳥城は、近くにある横武城や姉川城と同様に、佐賀平野特有の濠(クリーク)を防御に利用した城郭で、多くの島がそれぞれ曲輪として利用され、ほぼ中心にある城内最大の島(曲輪)が主郭で、昔から伝わる呼び名が「城屋敷」となっている。
通常は小舟での移動に使われたこの濠は、一旦、戦いとなれば最大の防御線となり、更に、各島々には土塁を設け、敵からの防御の役割を果たしていた。現在、クリーク内の各島々の竹藪となっているところは、概ね当時の土塁跡と見られるそうだ。
現在、城跡は「直鳥クリーク公園」となり、ゲートボールに興じる多くの人がいた。また、外縁部のクリークには、住宅が建てられて宅地となっているほか、多くが畑等になっている。
(2012/11/12訪れて)
ギャラリー
上空からの直鳥城跡の空撮(現地説明板より)
直鳥クリーク公園
直鳥城跡は、「直鳥クリーク公園」として整備され、駐車場も完備している。
城址碑
駐車場の脇には、「直鳥城 環濠集落跡」と刻まれた石碑や説明板が立っている。
クリーク
直鳥城にはクリークが複雑にめぐっている。各島々には敵からの防御の役割を果たしていた土塁が設けられていたが、現在、クリーク内の各島々の竹藪となっているところは、概ね当時の土塁跡と見られるそうだ。