肥前 唐津城(唐津市)

唐津城天守

虹ノ松原を見晴るかす山上にそびえる天守は模擬天守とはいえ一幅の絵のよう

別名

舞鶴城

所在地

佐賀県唐津市東城内8-1

形状

平山城(標高43m)

現状・遺構等

【現状】 本丸跡は舞鶴公園、二の丸跡は佐賀早稲田中学、高校、三の丸は市街地
【遺構等】 模擬天守、模擬櫓、門、石垣、曲輪

満足度

★★★★

訪城日

2015/07/15

歴史等

唐津城は、慶長7年(1602)から寺沢広高が満島山に7年の歳月をかけ築城、同13年(1608)に完成した。建材は名護屋城岸岳城から運んだと伝えられる。 
唐津城本丸のある満島山は、築城前には虹ノ松原方面から砂州が発達して陸繋島となっており、松浦川の川筋は島の南側を通り抜け、西側から唐津湾に流れ出ていた。そこで、松浦川の河口を東側に付け替え、旧川筋を堀(ニノ門堀)として残した。
そして、満島山一帯を陸から切り離して本丸・二の丸とし、東と南は松浦川を利用した外堀とし、西はニノ門堀を隔てて三の丸(侍屋敷)が続いた。
寺沢広高は、文禄4年(1595)に豊臣秀吉から唐津を拝領し、築城までは岸岳城の脇城である田中城(北波多村)に居た。築城後は唐津城主として過ごしたが、正保4年(1647)寺沢氏は天草の乱の責を受け、2代32年で断絶。
一時幕領となるが、つづいて、大久保氏の2代・30年、松平氏の3代・14年、土井氏の4代・72年、水野氏の4代・55年、そして最後に文化14年(1817)に小笠原長昌が、磐城棚倉藩から入り、5代・52年で明治2年(1869)の版籍奉還を迎えた。
『日本100の城(日本交通公社刊)、日本城郭大事典(新人物往来社刊)参照』

現況・登城記・感想等

唐津城は別名舞鶴城といいますが、それは城を胴体とし、城主寺沢広高が防風林として育てた「虹ノ松原」を右羽にたとえ、左羽を西唐津の妙見松原(西ノ浜松原)、頭を鳥島になぞらえた感じから名付けられました。
唐津湾に面した小高い満島山に配置された本丸に築かれた天守の姿は、模擬天守とはいえ、山麓から見上げる光景は絵になります。
現在の唐津城の建築物は、全て模擬(或いは復興)建築物ですが、本丸は勿論、二の丸跡にも石垣が良好に残り見応え充分です。
また、天守上から見下ろすパノラマも素晴らしく、当城が水に囲まれた城であることを改めて思い起こさせてくれます。
一方、三の丸跡は、全て市街地となっていますが、ニノ門堀が残り、復興三の丸辰巳櫓など見どころ満載です。
(2015/07/15登城して)

ギャラリー

舞鶴城の名の由来 
唐津城は、唐津湾に面した小高い満島山に築かれています。別名舞鶴城といいますが、それは城を胴体とし、城主寺沢広高が防風林として育てた「虹ノ松原」を右羽にたとえ、左羽を西唐津の妙見松原(西ノ浜松原)、頭を鳥島になぞらえた感じから名付けられました。
唐津地図

松浦橋から唐津城を望む(バスの窓から)
唐津城は、名護屋城などに登城した際に、山麓を通ったのですが、実際に登城するのは初めてです。今回は博多から電車に乗り唐津まで・・・。唐津駅からは小さな市内循環バスに乗ってやってきましたが、バスの窓から松浦川越しに見上げる唐津城の姿は絵になります。
唐津城遠景

唐津城本丸鳥瞰図(パンフレットより)
登城した日は、石垣再築工事中で、残念ながら⑧西門から⑬西門口石段を通ることができず、⑩二ノ曲輪(中段広場)へも行くことができませんでした(/。ヽ)。
唐津城鳥瞰図

【本丸へ】
正面登り口石段
本丸の南側にある石段を登って行きます。この石段は中段まで176段、上段まで231段あります。
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総締門跡(枡形虎口)
総締門は枡形虎口になっており、門の礎石が4つ残っています。
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総締門跡(枡形虎口)
中段から撮影したものです。
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天然記念物紫藤
中段北側には天然記念物の紫藤が・・・。花の咲いている時は凄いでしょうね。
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天守
石垣再築工事中のため、二ノ曲輪(中段広場)へは入れなかったので、こんな写真に・・・。
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一ノ門前から天守を
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一ノ門
なかなか立派な櫓門ですが、現存門ではありません。
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一ノ門
一ノ門は内枡形の埋門になっています。
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本丸(上段)
本丸(上段)には高さ3m以上あると思われる立派な城址碑が立っています。
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北門と亀頭櫓
本丸(上段)の北西隅には北門と亀頭櫓が建っています。北門はエレベーターの駅、亀頭櫓は売店になってます。
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天守と化粧櫓(右手前)と西門
天守の周囲は、石垣再築工事中のため、化粧櫓へも西門へも近寄れません。
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【天守5階からの眺望】
虹ノ松原(東)方面
左奥に見えるのが虹ノ松原で、その右奥に見える山は鏡山です。そして、すぐ下に見えるのが一ノ門で、その向こうが寺沢広高が築城時に砂州を切り離して松浦川の川筋を替えた河口で、右の橋が舞鶴橋、右奥の橋が松浦橋です。
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西ノ浜松原(西)方面
すぐ下(二の丸跡)には早稲田佐賀中学・高校があります。右奥が西ノ浜海水浴場と松原です。
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唐津湾(北)方面
正面に見えるのが高島で、左の小さな島が舞鶴の頭に相当する島です。本丸先端の建物は北門と亀頭櫓です。
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【二の丸と三の丸へ】
二の丸跡には早稲田佐賀中学・高校が建っていますが、長~い石垣は健在です。二の丸と三の丸を断ち切るニノ門堀も健在です。また、三の丸は市街地となっていますが、辰巳櫓等々が残っており、時間に余裕があればゆっくり見て廻りたいところです。
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天守上から二の丸と三の丸方面を
真下に藩主邸・藩庁跡に建てられた早稲田佐賀中学・高校がみえます。そして、その向こうに二の丸、三の丸が続いています。
二の丸

本丸西端の石垣
本丸と二の丸を区画する石垣でしょうか。この本丸西端の石垣は、唐津湾の方まで延びています。
本丸西面石垣

藩主邸・藩庁跡の北面の野面積み石垣
藩主邸・藩庁跡の北面の石垣を東側から撮ったものです。この東側は、野面積みの石垣です。

二の丸北面石垣

藩主邸・藩庁跡北面の打込みハギの石垣
石垣に沿って、西の方へ歩いて来ると、石垣が打込みハギに変わってきます。こちらの方が、新しいのでしょうね。
二の丸北面石垣2

ニノ門堀北部分
二の堀は、寺沢広高が唐津城を築く際に、松浦川の河口を満島山(唐津城本丸)の東側に付け替えて、二の丸と三の丸間の旧川筋を活用したものです。堀の右側が二の丸で、左側が三の丸です。 
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ニノ門堀南部分
堀の左側が二の丸で、右側が三の丸です。
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時の太鼓
4代城主土井氏時代に、ニノ門堀の西側(三の丸側)のこの地に時鐘がおかれた。後に、「金附堂」、「時太鼓堂」、「撞鐘堂」となり、5代城主水野氏時代に「時之太鼓」となった。
唐津城址整備計画の一環として「唐津藩絵図」に基づき再現された。(現地説明板より)
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