対馬 桟原城(対馬市厳原町)

桟原城跡の陸上自衛隊対馬駐屯地前に残る石垣

対馬藩中興の祖・宗義真が朝鮮通信使行列の際に威儀を張るために築いた城

読み方

さじきばるじょう、さじきばらじょう

別名

桟原館、厳原城、府城、府中城

所在地

長崎県対馬市厳原町桟原38
【アクセス】
陸上自衛隊対馬駐屯地が城跡です。厳原港から国道382号線へ出て、4kmほど北上すると右手に「陸上自衛隊対馬駐屯地」と「桟原館跡」の案内板があるので、右へ曲がり道なりに登って行くと「「陸上自衛隊対馬駐屯地」へ出ます。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 陸上自衛隊対馬駐屯地
【遺構等】 石垣、堀(阿須川)、城門、碑

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2015/07/13

歴史等

桟原城は、対馬藩中興の祖といわれた宗義真が、万治3年(1660)から工事を開始し、18年の歳月をかけて延宝6年(1678)に完成した。
築城と並行して城下町の町割が行われ、馬場筋(現国道382号線)を中心とする道路の整備が進められた。
城のある丘は、元々、振袖山から後山まで続く丘陵地帯であったのを、山麓を掘り切って砥石渕から下る川筋の厳原本川を阿須湾側に放流し、丘をならして城郭を築いた。これによって府中の川が氾濫する憂いが解消した。勿論、この人工の阿須川が城の堀である。
桟原城というのは後世の名称で、家中では「お屋形」と称したが、城というときは「府城」或いは「府中城」であり、明治2年(1869)に町名を厳原と改めてからは「厳原城」と改称した。即ち、「厳原城」という名は「金石城」に対しての名であり、それは「金石城」と「桟原城」の2つの府城があったからである。
桟原城を築いたのは、朝鮮通信使が来朝した際に、船着場から金石城までの距離が近過ぎて、行列の威儀を張れないので、新たに海より遠くに府城を営み、馬場筋の大通りを開いて行列を盛大にしたのだという。このような理由があったから、幕府も新規の築城を許可したものと思われる。
義真の築城以来、13代続いて明治を迎え、同11年(1878)熊本鎮台対馬分遣隊が置かれ、現在は陸上自衛隊対馬駐屯地が設置されている。
『「パンフレット」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大系17」参照』

現況・登城記・感想等

桟原城は、現在、陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれ、城の名残りとしては、その周囲に石垣が残っているだけです。
とはいえ、厳原は風情のある城下町で、至る所に散見される武家屋敷石塀をはじめ、旧日新館門、長屋門、高麗門、対馬藩お船江等々、往時を偲ばせる遺構がよく残っており、それらを探しながら見て廻るのも楽しいものです。
(2015/07/13、14訪れて)

ギャラリー

桟原館跡への案内板
厳原港から国道382号線へ出て、4kmほど北上すると右手に「陸上自衛隊対馬駐屯地」と「桟原館跡」の案内板があるので、右へ曲がり道なりに登って行くと「「陸上自衛隊対馬駐屯地」へ出ます。写真右奥が自衛隊の建物です。
桟原城案内板

碑と石垣
道なりに登って来ると、左手に「朝鮮通信使幕府接遇の地」の標柱があり、そのテッペン部に小さな字で「朝鮮通信使饗応の舞台 宗家桟原館」と書かれています(苦笑)。朝鮮通信使に関する標柱は他にも厳原町の多くの場所で散見されます。
碑

石垣
桟原城の金石城と同様、対馬流工法が駆使された石垣で2段になっています。大きな石が多く使われた石垣は見応えがあるのですが、金網が邪魔ですヽ(`⌒´)ノ。 
石垣

【桟原城跡に関連する遺構】
厳原町には武家屋敷石垣をはじめ、旧日新館門、長屋門、高麗門、対馬藩お船江等々、桟原城や金石城に関連する遺構がよく残っており、それらを探しながら見て廻るのも楽しいものです。
高麗門(桟原城第三門)
延宝6年(1678)桟原の丘に新しい藩主屋敷が完成しました。この門は、その屋敷の第三門(通称高麗門)として建っていましたが昭和62年(1987)8月31日に台風12号によって倒壊しました。現在は市立厳原幼稚園(厳原町日吉238)に移築復元されています。
垂木を柱の真に合わせて、扉上に11本並べ両側も合計12本並べます。その垂木柱間に渡した軒桁にのり、軒桁を5本の梁で支え、その梁を舟肘木が太い桁上に乗り、太い桁は4本の柱で支えられています。なかでも両扉側の柱は短形で太く、尾に鬼瓦に紋を入れ、棟を高くし、天井を張り、全体として均整がとれています。
高麗門

旧日新館門(元藩主中屋敷門)
国道382号線(馬場筋)沿いに旧日新館門が建っています。
(以下説明板より)もと対馬藩主宗氏の中屋敷門でしたが,幕末には藩校日新館に用いられました。大門に石塀・石塁(門庭)・脇造屋が付属する江戸末期における大名家の格式を備えた武家屋敷門の遺構としては、長崎県で唯一のものです。日新館は幕末時代対馬藩勤王党の拠点でしたが藩の内紛により、その多くが憤死して痛恨の歴史を遺したと知られています。昭和45年、長崎地方裁判所厳原支部の改築工事にともない解体・保存ししていたものを、平成2年度から3ヶ年計画で始めた「城下町厳原拠点整備事業」により復元したものです。
日新館門

対馬藩家老氏江家屋敷跡(長屋門)
対馬振興局の一画は宗氏の中屋敷、御隠居屋敷ともいわれましたが、後に一門の氏江家(石高900石)がこれを賜り、氏江家の屋敷となりました。明治10年代、長崎県厳原支庁の庁舎として使われました。現在も、長屋門のほか、周囲の石垣・庁舎裏の庭園等に往時の武家屋敷の面影を偲ぶことができます。
長屋門

長屋門脇の石垣
長屋門脇石垣

お船江跡
「お船江跡」は厳原湾の南側の久田川河口に対馬藩時代に藩船が係留されていた場所で「お船屋」とも言われていました。5基の船着場があり、寛文3年(1663)の造成と推測されています。築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができます。江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていましたが、遺存例の乏しい現在、日本近世史上貴重な遺構です。(パンフレットより)
お船江

【武家屋敷石垣塀】
厳原は対馬藩の城下町に相応しい屋敷塀が各所に残っています。これらの石垣塀は、江戸時代初期に築かれ、延宝6年(1678)に桟原城ができた頃から数を増し、文化8年(1811)の朝鮮通信使の来朝に備えさらに整備されました。ここでは、それらの一部を紹介します。
馬場筋(国道382号線)沿いの武家屋敷の石垣塀
桟原の新屋形(桟原城)が造営され、西の浜の船着場から桟原屋形の大手門まで、馬場筋通り(現国道382号線)が開設され、城下の町割が行われたとき、この馬場筋の両側に宗家一門及び家中上士の屋敷が門を並べた。
武家屋敷上級武士

上裏町武家屋敷の石垣塀
この付近は数百石取りの武家屋敷町
武家屋敷上裏町

中村地区武家屋敷の石垣塀
島主10代・宗貞国が、応仁2年(1468)に対馬中部の峰町佐賀から移って来て築いた中村屋形周辺です。寛文時代(1660年代)に対馬藩中興の祖といわれた宗義真によって屋敷町として整備されました。
武家屋敷中村地区

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