亀丘城北面に僅かに残る石垣
元寇直後に岸岳城主波多氏が壱岐に進出して築いた山城
別名
亀尾城
所在地
長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触、亀丘公園
【アクセス】
郷ノ浦中学校と道路を挟んで南側の丘が城跡(亀丘公園)です。駐車場は城跡の南側にあります。
郷ノ浦中学校:壱岐市郷ノ浦町本村触75、電話0920-47-0424
形状
山城
現状・遺構等
【現状】 亀丘公園
【遺構等】 曲輪、石垣、土塁、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2015/07/14
歴史等
亀丘城(別名、亀尾城)は、鎌倉後期の永仁2年(1294)、肥前岸岳城主・波多宗無が築城したと伝えられる山城である。波多氏は中世、松浦郡地方に割拠した武士団、松浦党の一員である。
松浦党の祖は、延久元年(1069)に摂津国渡辺荘から松浦郡宇野の御厨検校ならびに検非違使に補任されて下向土着した源久で、久は松浦氏を名乗り一族に松浦の各地を分封して独立させ、勢力の拡張を図った。
一方、波多氏の祖は源持である。持は久の次男で、波多郷を与えられて波多氏を名乗り、以後、文禄2年(1593)、波多三河守親まで15代(16代とも)に及んで断絶した。
亀丘城を創建した宗無については不明であるが、第3代の波多勇か第4代の明と思われる。定かな史料はないものの、波多氏は元寇直後の壱岐に進出して、支配の根拠地とすべくここ武生水村一帯を領分としたものであろう。
波多氏が壱岐島全島を掌中に収めたのは文明4年(1472)11月で、第12代下野守泰は、松浦党の志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留の5氏が分治する壱岐を急襲して領有することとなる。そして亀丘城を修築して入り、一族を留めて統治する。
第13代は下野守興、第14代は壱岐守盛だが、盛は嗣子のないまま天文11年(1542)に歿した。この後、後継者を巡る内紛が生じ、永禄7年(1564)には重臣日高甲斐守喜の謀反に発展し、波多氏は日高氏によって岸岳城を追われることとなる。
しかし、龍蔵寺・有馬両氏の助勢を得て奪回し、敗れた日高氏は壱岐に逃れて亀丘城を奪い、壱岐を押領した。
永禄11年(1568)、日高氏は龍蔵寺氏・波多氏に対抗するため平戸の松浦氏と誼を結ぶが、元亀2年(1571)には松浦氏に従属することとなる。
以後、壱岐は松浦氏(平戸藩)の領地となり、松浦氏は明治までの約300年間、亀丘城に城代と郡代を派遣して統治した。
尚、城名は二の丸にあった亀石と呼ぶ名石にちなんで名付けたと伝える。
『現地説明板より』
ギャラリー
郷ノ浦中学校と道路を挟んで南側の丘陵が亀丘城跡(写真右)です。本来の登城口は、城跡(公園)の南側にありますが、私は、写真右側の崖に設けられた階段を登って行きました。
本丸北面に残る石垣
崖に設けられた階段を登って行くと、本丸の北側下に出ます。そこに、なかなか立派な石垣が残っています。この石垣が、当城跡で唯一の見どころかもしれません。写真右の方に狭い階段があり、本丸へ登って行くことができます。
本丸跡
本丸は、亀丘公園となり、かなり改変されていてほとんど原形を留めていないようです。
本丸周囲の土塁
本丸周囲には、高さ50cmほどの土塁が確認でき、所々に石垣跡のようなものも散見されますが、これも往時のものかどうかは分かりません。
二の丸から本丸への登城道脇の土塁
二の丸跡から本丸跡までの道は切通しになって、特に外側の土塁は高さ3~4mほどありますが、これもどこまでが往時のものでしょう?
城址碑と説明板
二の丸跡から本丸へ向かう登城口に城址碑と説明板が設置されています。