肥前 原城(南島原市)

登城道、正面が本丸

島原・天草一揆全滅の舞台となった悲劇の城

別名

日暮城

所在地

長崎県南島原市南有馬町

形状

平山城(標高31.5m)

現状・遺構等

遺構:曲輪、石垣、空堀、櫓台、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

1992/12
1994/08/28
2007/02/11

歴史等

明応5年(1496)有馬氏の8代目領主有馬貴純により、日野江城の支城として築城された。城は県下最大の平山城で、周囲3km、41万㎡の規模を持ち、有明海に面して南東に突出した岬を利用した要害である。城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。
慶長19年(1614)島原藩主有馬直純(14代目)が日向国県城に移封されたあと、元和2年(1616)に大和五条から松倉重政が入封し、 日野江城に入った。重政は、原城を廃城とし、元和4年(1618)から島原城(森岳城)の築城にあたり構築用の石材として、この城の石垣等を運んだものと見られている。
廃城となったこの原城であるが、21年後の寛永14年(1637)10月25日、島原の乱の舞台として再び登場する。この地方はもともとキリシタンが多く、江戸幕府の禁教政策によって過酷な弾圧が加えられており、そこに島原藩主松倉勝家の圧政が重なって、ついにキリシタン信者・農民が蜂起した。
まず、島原の一揆が蜂起して島原藩兵を破り、天草諸島の一揆がこれに呼応して合流し、天草四郎時貞(天草大矢野島の豪農の子で、父は小西行長の遺臣であったと云われる)を総大将として3万7千人(2万7千人とも云われている)がこの原城に籠城した。これに対する包囲軍は西国諸大名の軍勢12万5千であった。
籠城3ヶ月もすると食料、弾薬も乏しくなってきた。翌年の寛永15年2月27,28日の総攻撃で一揆軍は全滅した。そして原城は徹底的に破壊された。領主松倉勝家は一揆の責任を問われ、所領没収を没収され7月に江戸で打ち首になった。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

初めて登城したのは、1992年12月の夕方で薄暗くなっていた。車で上まで行けた。城址の立地状況は分かったが、島原の乱後に徹底的に破壊されているためか、本等によると「北九州でも有数の規模を持つ天然の要害だった」とあるが、確かに海側は絶壁であるが、陸地側はそれほど急峻な山でもなく、しかも今では畑地も多いせいか、ごく平凡な丘陵のような気がした。遺構もあまりよく分からなかった。
後日、再登城した時も同様な感想であった。ただ、本丸からの有明海の眺望は絶景である。そして、遠い昔の悲劇に想いを馳せてその景色を眺めた。
どうやら、かなり見落としがあるようだ。機会を作ってまた行きたいと思う。
(2回の登城で)

原城は10年以上前に2回ほど登城しているが、薄暗かったり、時間が少なかったりしてあまりよく見ていないし、今日の登城は楽しみであった。
登城して驚いたことに、随分発掘工事が進み、復元がされていた。特に、本丸北面の池尻口門に続く石垣はなかなか見ものである。勿論、本丸前の結構大規模な空堀と往時の姿を残す東側の蓮池の地形も見ものである。
そして、相変わらず本丸跡から360度のパノラマも素晴らしい。北には雲仙普賢岳等の山並みが、南には陽の光に輝く島原湾の海と多少霞んではいるものの天草の島々が、東の方を見れば、有明海に何艘もの舟が浮かび、その向こうには熊本の陸地が、そして西の方には島原半島の集落と山並み、そして真っ青な島原湾と海岸に打ちつける白波が・・・。その明るい海原を眺めながら、「あそこからオランダ船に大砲を撃ち込まれたのか!!」と往時を偲んでみた。
今回は、海岸端に下りて行き、原城を見上げた。三方を海に囲まれた断崖絶壁上に築城された要害堅固な城であることがよく分かる。原城は元々、日野江城の支城として造られたとは云いながら、三の丸・二の丸・本丸とそれぞれが結構広く大掛かりな城ではある。しかし、幕府軍12万の大軍を相手に3万人以上もの人間が籠城するには、ちょっと手狭な気もする。
(2007/02/11登城して)

ギャラリー

原城本丸の全景(海岸端から見上げる)
三方を海に囲まれた断崖絶壁上に築城された要害堅固な城であることがよく分かる。
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田町御門跡
一揆軍の口之津次郎兵衛・千々石佐久左衛門等を中心に、小浜・千々石・天草上津浦の1400余名が守備していたところである。(現地説明板より)
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本丸前の大空堀
この空堀はかなり大規模である。島原の乱の時に防衛の為造られたもので、下写真の蓮池と通じ、本丸を孤立化した島とする為に築かれた。寛永15年(1638)2月21日の夜襲軍4千余人は食料・武器等の奪取の為、ここに集結し、黒田軍・鍋島軍を襲撃したが失敗に終わった。籠城の間は、竹や木で柱を立て、「カヤ」でその上を覆い、非戦闘員(老若男女)を収容していた。
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蓮池
ほぼ往時の形に近いのであろう。島原湾の向こうに天草諸島と熊本方面の陸地が見える。
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本丸への登城道
奥の石垣は池尻口門に続く本丸北面の石垣で左が蓮池。この光景が実に気に入った。
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本丸北面の池尻口門に続く石垣
この石垣はそれほど高くはないが、長く続くさまは絵になる。この城の見所の一つであろう。
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池尻口門(外側から)
この虎口は、島原の乱後、幕府の現地処理による徹底的な破壊により、石垣の築石やグリ石などで埋め尽くされ。さらに土を被せて隠されていた。発掘調査で検出し、開口部は東西に開き約6m、奥行は南北に約12mで5段の階段を有する虎口であることが分かった。この虎口は、本丸の裏門にあたり「池尻口」と明記してある絵図がある。
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池尻口門(内側から)
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本丸上
背後に見える山は雲仙普賢岳。
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本丸北虎口
本丸北側の虎口空間帯に設けられた虎口で、島原の乱の後、徹底的に壊され埋め込まれていた所である。調査により、埋め込まれた築石やグリ石と共に大量の瓦や人骨が出土した。この門は本丸正面の門として、特に見栄えと格式を重視したことが窺がえるとともに、厳重な防御力を備えたものであった。
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櫓台石垣
本丸南西隅には櫓台跡が・・・。島原の乱後の幕府による現地処理で徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分である。この場所は、築城当時、天守相当の重層の櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所である。
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天草四郎銅像
本丸跡には天草四郎像が立てられている。
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天草四郎の墓
本丸跡にある天草四郎の墓には、いつも花が供えられているようだ。
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本丸からの景色(北方面)
奥の山は雲仙普賢岳。今も煙が出ているのが分かる。
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本丸からの景色(南西方面)
右の陸地は島原半島・口之津方面、中央奥には天草諸島が見える。
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