肥後 菊池城(菊池市)

菊池城本丸跡の菊池神社

菊池十八外城を支城とする菊池氏の本拠の城

別名

隈府城(わいふじょう)、菊池本城、守山城、雲上城

所在地

熊本県菊池市隈府町城山
【アクセス】
「正観寺信号」を国道387号線で300m程北上し、「立町信号」を右折し、道なりに1km程進むと、左手に「菊池神社」、右手に「菊池公園」があります。神社と公園一帯が城跡で、この菊池神社が本丸です。神社に参拝者用駐車場が完備されています。

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 菊池神社、菊池公園
【遺構等】 土塁、空堀、竪掘、井戸、菊池武時銅像、菊池18外城の石碑

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/12/01

歴史等

菊池氏は、刀伊入冦のときに太宰権出師藤原隆家を助けてともに戦った大宰府官藤原政則の子で、肥後に下向して土着した大宰少監藤原則隆から起こっている。
菊池氏は、初代則隆が築いた菊之池城(菊池市深川)に代々居住していたが、正平年間(1346~1370)に、第16代当主菊池武政が菊池城を築いて移った。
菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ、現菊池市は城下町として栄えた。
戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返して衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われ菊池氏正統は没落した。
その後、豊後の大友氏が肥後を支配するようになると、菊池氏の旧臣赤星親家と隈部親永が対立したが、永禄2年(1559)隈部親永は猿返城(隈部館)を出陣し赤星氏を合勢川の戦いで破った。さらに天正6年(1578)には肥前の竜造寺隆信と結び、赤星氏を攻めて追放し、菊池・山鹿の両郡を抑えた。
そして、天正8年(1580)隈部親永が菊池城に入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は籠城してこれを凌いで島津氏と和睦し所領を安堵された。
天正15年(1587)の羽柴秀吉の九州平定後、秀吉は佐々成政に肥後一国を与えた。肥後は、守護の菊池氏が滅んだ後、52人の国衆が割拠していたが、秀吉からそれぞれ本領を安堵された。秀吉は成政に肥後の支配を任せるにあたり、これら国衆を刺激しないため3年間は検地をしないように命じたにも関わらず、成政は入国と同時に強引に検地を実施しようとした。そのため、俄然、国衆は決起し、ここに「肥後国衆一揆」が起こった。まず、口火を切ったのが隈部親永であった。
しかし、秀吉が一揆鎮圧のために圧倒的な軍勢を差し向けたため、次々に一揆勢は降っていった。隈部親永・親泰父子は半年にわたって抵抗を続けたがついに降伏し、自刃させられ、菊池城も破却された。
尚、佐々成政も一揆の原因を作ったことを理由に切腹させられ、この後、肥後の北半国が加藤清正に、球磨を除く南半国が小西行長に与えられ、肥後の近世を迎える。
『「日本城郭大系18」、「歴史公園麹智城・温故創生館内展示資料」他参照』 

*刀伊入冦
寛仁3年(1019)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。

現況・登城記・感想等

菊池城の本丸跡である菊池神社に到着したのが、午後5:10になってしまい、さすがに熊本県といえども、最も日が短い季節です。
かなり薄暗くなってしまい、駆け足で菊池神社を見て廻りましたが、遺構らしきものは見当たらず、城に関するものとしては、菊池氏第12代当主菊池武時の銅像と菊池城を中心に菊池18外城の名が刻まれた石碑しか分かりませんでした(/。ヽ)。
というわけで、城跡の感想としては「紅葉がきれいだった」ということくらいです(/。ヽ)。
何故か、中国人団体観光客がいっぱい訪れていました。紅葉の名所だからでしょうか?
菊池城跡には、土塁や空堀が僅かに残っているだけのようですが、肥後の名門「菊池氏」の本拠の城でもあり、また、機会を作って再登城することにします。
(2013/12/01訪れて)

ギャラリー

菊池城本丸跡に創建された菊池神社
菊池神社は慶応4年(1868)、皇室に忠義を尽くしてきた菊池一族を称えて、明治天皇が熊本藩に菊池氏を顕賞し祭祀を行うよう命じ、明治3年(1870)菊池城本丸跡に社殿を造営されました。主神は南北朝の争乱時代、九州における南朝方の雄として活躍した菊池武時・武重・武光の3代です。
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菊池18外城の碑
当菊池城(菊池本城)を中心に周囲に菊池18外城の名が刻まれている。「菊池18外城」とは、「菊池風土記」では、山鹿・玉名方面を押さえる台城・打越城・正光寺城・馬渡城・増永城、その防御線を支える亀尾城・神尾城・菊の池城、亀尾城とともに合志方面に備える古池城、菊池城を守る戸崎城・城林城、本城背後を守る掛幕城・市成城、さらに後方に黄金塚城・元居城・五社尾城があり、鷹取城、葛原城をあわせて十八外城としています。(熊本県ホームページより)。
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菊池武時像
12代菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦空しく鎮西探題館内で戦死した。
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コメント

(2016/01/04)

駐車場の奥に巨大な空堀と土塁があります。
次回ご来訪の機会があれば、ぜひご覧ください。

タクジロー(2016/01/04)

当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
情報ありがとうございます。
次回は是非、空堀と土塁を見つけます。
今後とも宜しくお願いします。

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