豊後 日隈城(日田市)

日隈城三の丸への枡形虎口石垣

秀吉の家臣宮木氏が築いた平山城、毛利高政が五層六階の天守を築き修築

読み方

ひのくまじょう

別名

隈城

所在地

大分県日田市亀山町、亀山公園
【アクセス】
日隈小学校の東約150~200mにある「亀山公園」が城跡で、公園に無料駐車場が完備されています。
日隈小学校:日田市日ノ隈町578-1、電話0973-23-6285

所要時間

駐車場から本丸跡まで10分ほど、今回の見学時間は30分ほどでした。

形状

平山城(標高112.3m、比高約30m)

現状・遺構等

【現状】 亀山公園
【遺構等】 曲輪、石垣、石碑、説明札

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2013/11/27

歴史等

日田は筑後川の上流である三隈川と花月川に挟まれ、古くから水運の要所として発展した。
文禄3年(1594)豊臣秀吉から玖珠・日田郡の守代を命じられた宮木豊盛は、三隈川沿いに日隈城を築いた。
文禄4年(1595)毛利高政が日隈城代となり、慶長元年(1596)城を修築して五層六階の天守を築き、三層の月見櫓・丹後丸櫓・二の丸門櫓・北の三の丸櫓・三本松大門などを建てて、本格的な城郭にした。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、毛利氏は最初西軍であったので、中津城主黒田如水に攻められ、籠城の末、和議となった。
関ヶ原合戦後、毛利高政は所領を安堵された。翌慶長6年(1601)豊後佐伯へと移封になったが、日隈城も引き続き預りとなり城代が置かれた。
その後、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
『日本城郭大系16ほか参照』

現況・登城記・感想等

日隈城は、市街地北部にある三隈三山の一つである日隈山(別名、亀山、亀翁山)に築かれた平山城です。
縄張りは、亀山の最高所に本丸を置き、その下に2段の腰曲輪(二の丸、三の丸)を配置しただけの単純な形式です。
往時は五層六階の天守をはじめ多くの櫓が建てられていたというが、その面影はほとんどなく、城跡としての見どころといえば、三ノ段(三の丸)の枡形虎口の石垣くらいのものです。
現在は、亀山公園として整備されて市民の憩いの場となり、私が登城した時には紅葉が綺麗でした。
尚、三の丸跡には、やたらと大きな石碑や石燈籠などが立っているが、中でも日田郡馬原村庄屋の穴井六郎右衛門が行った幕府への直訴を称えたという記念碑は高さ8mはあろうかという途轍もなく大きさでビックリですw(*゚o゚*)w。
(2013/11/27登城して)

三隈三山:日田市に位置する日田盆地内にある日隈、月隈、星隈の3つの丘の総称

ギャラリー

日隈城跡全景
駐車場前(城北東)から撮ったものです。往時は、川から水を引いた内堀があったそうですが、手前に見える池は公園化にあたって造られたものでしょう。
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本丸跡
往時は五層六階の天守が建っていたという山頂部の本丸跡には日隈神社が鎮座し、拝殿には大久保利通が書いた「龜翁山」、西郷隆盛の書いた「日隈神社」の扁額があるそうですが見落としました(;>_<;)。
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大手門跡
三の丸への虎口から登ったところにある大手門跡には、金色の文字で「大手門跡」と刻まれた立派な石碑が立っています。
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枡形虎口
日隈城で、唯一の城跡遺構らしい枡形虎口石垣です。
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三の丸跡に林立する石碑と石燈籠
三の丸跡には、やたらと大きな石碑や石燈籠などが立っているが、中でも日田郡馬原村庄屋の穴井六郎右衛門が行った幕府への直訴を称えたという記念碑は高さ8mはあろうかという途轍もなく大きさでビックリですw(*゚o゚*)w。
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紅葉
日隈城で、最も印象に残ったのは、この紅葉かもしれません(苦笑)。
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