豊後 高田城(豊後高田市)

豊後高田城の石垣と石段

大友氏の家臣高田重定により築城、竹中半兵衛の従兄弟重利が拡張

所在地

大分県豊後高田市玉津字本丸
【アクセス】
桂陽小学校から公民館一帯が城跡です。小学校の南東にある公民館の駐車場を利用させて戴きました。
桂陽小学校:高田市玉津1053、電話0978-22-2075

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 市街地(桂陽小学校など)
【遺構等】 土塁、堀、石垣、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2013/11/28

歴史等

高田城は、建久7年(1196)に大友氏の豊後下向に随従した高田重定によって築かれたと伝えられる。高田氏は、代々大友氏に臣従し、南北朝の争乱から、大内氏との豊前争覇戦、島津軍との攻防戦などに出陣したが、大友氏改易後は帰農した。
文禄2年(1593)、竹中半兵衛の従兄弟の竹中重利が美濃長松城より入封し、城の大改修を行って現在残る規模に拡大した。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が起こると、重利は中津城主黒田如水に従って東軍に与し、東国東の富来城、安岐城など大友軍の拠点攻撃や石垣原合戦の功により、慶長6年(1601)豊後府内へ移封となった。
その後、38年間、城主不在であったが、寛永16年(1639)、豊前龍王城から松平重直が入城し、竹中氏時代に未完了であった城郭改修工事を再開したが、在城7年にして豊後杵築城へと転封となり、工事は中断し廃城となり、その後の20余年は杵築藩預かり地となった。
寛文9年(1669)、福知山城主松平忠房が肥前島原に移封になった時、豊後高田は島原領の飛び地となった。島原松平氏は、高田城本丸に陣屋を設けて明治に至った。
『「現地説明板」、「日本城郭大系16」ほか参照』

現況・登城記・感想等

高田城は、桂川河口の台地に築かれ、周防灘と桂川に面した2方向が崖となった地形を利用して築かれた平山城です。
高田城本丸は、桂陽小学校と中央公民館の敷地となっていて、中央公民館の南側に石垣と石段が残っています。
小学校の周囲に内堀と土塁が残り、また、高田高校~高田中学にかけて外堀と土塁が残っているようですが、見落としてしまいました(/。ヽ)。
土塁や堀が残っていることは知っていたのですが、小学校周辺を少し見ただけで戻って来てしまいました。高田城跡の最大の見どころであろうし、なかなか訪れることが出来ないところだけに、ショックは大きいです(/。ヽ)。
完全に事前準備不足でした(;>_<;)。
(2013/11/28訪れて)

ギャラリー

石段
鎌倉時代の建久7年(1196)に豊後国の守護になった大友能直により、この地を与えられた高田重定が高田城を築いた折りに開かれたものです。
IMG_6515

石垣
説明板には、「この石垣も、建久7年(1196)に築かれた高田城の城壁です」とあったが、当時、こんな見事な切り込みハギの石垣を築く技術があったのでしょうか疑問です。
多分、石段も石垣も、いずれも石で築いたかどうかは兎も角、坂道(階段)と城壁を築いたということでしょうね。

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