豊後 岡城(竹田市)

三の丸高石垣

義経を迎えるため築城という伝説の山城は「荒城の月」を生んだ

別名

竹田城、臥牛城

所在地

大分県竹田市竹田字岡

形状

山城(標高325m、比高約100mで最も深い谷底からは130m)

現状・遺構等

【現状】 山林 (国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、堀切、城門跡、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1993/06/18
2006/07/28

歴史等

文治元年(1185)大野郡緒方庄の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田庄に流されたと云われるが、伝説の域を出ないようである。
南北朝時代に豊後守護大友氏の有力な庶流志賀氏がここに拠り、以後、志賀氏の本拠となって築かれたものらしい。
天正14年(1586)から翌年にかけて、九州制覇を目指す薩摩の島津軍が豊後に侵入、豊後南郡衆が次々と寝返ったり降伏したりする中で、志賀氏17代当主・親次(ちかつぐ)は天険の岡城に拠って孤軍奮闘し、ついに島津軍を撃退した。親次は慶長元年(1596)、主家の大友義統(よしむね)が豊後を没収されたさい、秀吉から日田郡内に1千石を与えられて去った。
その後文禄3年(1594)、播磨三木から中川秀成功が入封し、江戸時代も中川氏が代々岡藩主として明治に至った。
現存する岡城は、中川氏が入部してから普請されたものであり、天神山を本丸として、以前の大手・下原口を搦手に、西南側に大手口を、北西側に近戸口を切り開き、3つの出入り口となった。城の曲輪は、東から御廟の曲輪、東西の中仕切の間に本丸・二の丸・三の丸の曲輪、その西側に西の丸の曲輪が設けられた。石垣の普請は、穴太衆と思われる「穴太伊豆」を大坂から呼び寄せ工事にあたっている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「パンフレット」、「現地説明板」参照』

【荒城の月と滝廉太郎】
滝廉太郎はこの岡城跡のイメージによって「荒城の月」を作曲したといわれている。滝廉太郎は明治12年(1879)東京に生まれたが、同24年、内務官僚であった父が大分県直入郡長となったため、それから東京音楽学校に入学するまでの3年間をこの竹田で過ごし、同30年にも病気療養のため竹田を訪れている。

現況・登城記・感想等

岡城は、天険の要害地に築かれた総石垣の山城である。
その魅力は、各曲輪や城門跡等々に見事に残る石垣群である。中でも、断崖に築かれた二の丸や三の丸の高石垣の姿は優美で、いつまで見ていても見飽きない。
但馬竹田城とともに、日本の山城の魅力度ナンバー1を競う城址で、竹田城が東の横綱なら、この岡城は西の横綱である。

ギャラリー

岡城縄張図(現地案内板より)
岡城縄張図

【登城記(2006/07/28)】
【西郭部】

前回(1993/06/18)は、豪雨のため登城口から西の丸の石垣と大手門方面の石垣だけ見て登城を断念するはめになってしまった。以来、13年ぶりの登城となったが、今回は36度という猛暑の中の登城となった。今回の登城時間は約2時間。これでも一部省いた。実に見応えのある城址である。

駐車場(総役所跡)から西の丸の石垣を
岡城へ着いて、いきなり、この断崖に築かれた高石垣を見た時点で感激する。
01西の丸石垣を見上げる

登城口 
大手道にさしかかるところに、城主中川氏の末裔筆による「史蹟 岡城趾」と刻まれた石碑が立つ。ここから見上げる大手道の石垣と大手門石垣(写真右上奥)の光景はなかなかのものですが、残念ながら、真夏の登城のため、木々の葉が生い茂り、 石垣の多くが覆い隠されてしまっているのが残念(;>_<;)。
02登城口

大手道から大手門を
この頭上を覆うような高石垣が続く登城道と大手門の石垣(中央奥)の光景は本当に絵になる。
03登城道から大手門を望む

大手門跡
文禄3年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の3口を切り開かれ、慶長18年(1613)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。
04大手門

大手門枡形
大手門内側は勿論枡形です。
05大手門枡形

古大手門跡
移築前の大手門で、朝日がまぶしいために、慶長18年(1613)に現在の位置に移された。大手門と較べると随分小型です。
06古大手門

朱印状倉
大手門の前に朱印状倉跡というのがある。石垣で方形に囲ってあるが、朱印状を保管する蔵が建っていたのだろうか。
07朱印倉

東門跡
石段の上が東門跡であり、その奥の一段高い所が西の丸御殿跡。
11東門

西の丸跡
西の丸はかなりの広さで、サッカーでもできそうなほどだ。西の丸御殿は寛文4年(1664)に3代久清により隠居所として造られた。右奥が秋葉社跡。
12西の丸

新屋敷門跡
西の丸の南側の虎口であるが、車の出入口になっているようで、周囲は少し破壊されているかも。
13新屋敷門

西の丸の奥の秋葉社跡脇の虎口から見る普請方跡方面
手前左には古井戸があり、石段を降りて行くと右側に家老(民部)屋敷跡、正面が普請方跡、左前方に近戸門跡がある 
14普請方方面を

角櫓
この角櫓ですが、西の丸の秋葉社跡周辺にあったのは確かですが、案内板の縄張図にも載っておらず、よく覚えていません。多分、秋葉社跡脇の虎口を降りて行ってすぐ右手だと思うのですが・・・( ̄ー ̄;。
15角櫓

家老(民部)屋敷跡
17家老屋敷(民部)

近戸門跡付近から西の丸の石垣を望む
この石垣群の光景も見事ですが、残念ながら薮が邪魔してもう一つか?
16西の丸を振り返る

近戸門及び普請方跡の石垣
これまた、なかなかの石垣群で見応え充分です。
18近戸門方面を

近戸門跡
近戸跡の先は七曲りとなり、駐車場(総役所跡)や武家屋敷跡へと辿り着く。 
19近戸門

普請方跡
岡城には多くの井戸が掘られていたようで、この普請方跡にも井戸跡があり、その脇に石がくり抜かれた手水鉢があった。
20普請方

家老(覚左衛門)屋敷跡
この家老(覚左衛門)屋敷跡も相当な広さで、北側には物見櫓台跡のような石垣が残っている。
21家老屋敷(覚左衛門)

家老(覚左衛門)屋敷跡から本丸方面を望む
二の丸と三の丸の高石垣が深い谷越しに見える。 
22家老屋敷から本丸方面石垣を

賄方跡から武具方の石垣を
本丸方面へ向かうべく、南へ行くと賄方へ出る。正面に見える石垣は武具方の石垣。
賄い方から武具方の石垣を

家老(但見)屋敷跡
岡城初代藩主中川秀成が仮住まいしていた場所で、その後、秀成の姉糸姫とその母稍々(やや)が住んでいた。糸姫は姫路藩主池田輝政の正室となったが、嫡男利隆を出産した後、徳川家康の娘と池田輝政が結婚することになった。糸姫は利隆が姫路藩主になるのを見届けてから、弟の居城である岡城にやって来て、ここで、母と晩年を送ったという。糸姫が亡くなってからは、家老(但見)屋敷となった。
25家老屋敷(但見)

城代屋敷への虎口
城代屋敷の北西部(城代屋敷と但見屋敷の間)に虎口があり、ここから城代屋敷及び、但見屋敷との間の小路へ出るようになっている。
31城代屋敷への虎口

家老(但見)屋敷跡と城代屋敷跡の間の小路
左側が城代屋敷、右側が家老(但見)屋敷の石垣であるが、城代屋敷の石垣は、かなり崩れ落ちている。
城代屋敷と但見屋敷間

【主郭部】
西中仕切跡
城代屋敷跡から籾倉跡を東へ向かうと西中仕切跡へ出る。城門が建っていたのだろう。ここから入ると主郭部(本丸・二の丸・三の丸)となる。
42西中仕切門

三の丸の石垣
西中仕切跡の脇から撮ったもので、ここが岡城の見どころの一つで、定番となっている。いつまで見ていても見飽きない光景です。 
41三の丸石垣 

太鼓櫓
中仕切を入ると、すぐに太鼓櫓の石垣が現れる。典型的な切込みハギのきれいな石積みである。 
43太鼓櫓

二の丸石垣
太鼓櫓から入ると三の丸跡へ出る。三の丸端から見える二の丸石垣も実に美しく、これまた岡城の写真の定番だ。
44二の丸石垣 

三の丸から見る本丸石垣
石段を上がった右側が本丸。石段の左を行くと二の丸に出る。 
45本丸石垣

空井戸
三の丸から二の丸への途中にある空井戸で、「井戸の深さは73m、穴の直径は、入口は3m、下部で2mある。入口より8mまで石で巻き下し、底は水がなく平たい石が詰められている。北方の石垣の隙から風が通っており、底から高さ4尺の処に東向に穴があり、その深さ手の届くところに観音像らしきものが安置されている」との説明があるが、いわゆる抜け穴であろうか? 
46井戸

二の丸跡 
二の丸跡には、「荒城の月」を作曲した滝廉太郎像が立っている。滝廉太郎はこの岡城跡のイメージによって「荒城の月」を作曲したといわれている。
47二の丸 

二の丸から深い谷越しに見える御廟曲輪の石垣 
51御廟曲輪石垣

本丸跡
61本丸

金倉跡
本丸の東端には金倉跡が・・・。
62金倉

東中仕切跡(本丸跡から撮影)
本丸(金倉跡)から撮ったものです。この先には、御廟所跡等々があるが、時間がなかったので、ここまでにしました。いずれにしても、この岡城は、草木が枯れた冬に、また再登城したいので、その際には・・・。
東中仕切 

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