西の丸西南隅櫓(手前)、東の丸着到櫓(奥)、宗門櫓(中央に小さく)
加藤清正の援助を受け築城された美しい白雉城は、かつての交易地
別名
荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)、大分城
所在地
大分県大分市荷揚町
形状
平城
現状・遺構
遺構:現存(宗門櫓、人質櫓)、復元(大手多聞櫓、着到櫓他2基の櫓、廊下橋)、石垣、内堀、曲輪跡
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/07/28
歴史等
府内城は慶長2年(1597)、福原直高により築城が始められ、2年後には一部が完成したが、直高の領地没収によって中断した。
これに代った早川長敏も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に加担して取り潰された。次いで、竹中重利が入封して築城工事を再開した。
石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、慶長7年(1602)、4重の天守閣がそびえる城郭が完成した。
荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接した、かつての「荷落ろし(交易地)」の場所に城地を定めた。「荷揚」
の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれている。また、その美しい姿から「白雉城」とも呼ばれる。
その後、竹中氏は長崎奉行を兼務していた重義の時に、非達を咎められ断絶した。
代って寛永11年(1634)壬生城(栃木県)から日根野吉明が入封したが、後継ぎがなく、1代で断絶した。次いで、松平(大給)
忠昭が万治元年(1658)に新藩主として入封した。以来、明治4年(1871)の廃藩置県まで、
2万余石の譜代大名として10代にわたり続いた。
この間、寛保3年(1743)に城下で起こった大火によって、天守閣をはじめ城の施設が多く焼失し、以後天守閣は再建されなかった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
往時は海に接した水城で「白雉城」とも呼ばれる美しい城であったそうだが、今では都会に埋没したただの平城。
本丸を囲んでいた水堀も埋め立てられて、東の丸・本丸・西の丸がひとつになってしまっている。
現存建造物としては、人質櫓と宗門櫓が残っている。他にも、大手門の多聞櫓をはじめ4基の櫓が復元されており、
山里丸と西の丸との間には廊下橋も復元されている。また内堀や多くの石垣、そしてかなり立派な天守台も残っており、
それなりに見応えはあるが、城内にある文化会館の建物にはどうにも興醒めする。
(2007/07/28訪城して)
ギャラリー
府内城の図
大手多聞櫓(復元)
天守台
大友宗麟銅像
何故か、この城とは関係のない大友宗麟の銅像が天守台の前に。
㊧北二重櫓台と人柱お宮(手前下に)、㊨人柱お宮
北二重櫓は天守閣と北渡橋にて繋がっていたようである。その櫓台前に人柱お宮が。人柱お宮とは、福原直高が、
この地に府内城を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになり、
孝行娘のお宮が一家を救うために弁財天の木像を抱いて人柱となった。その後、築城は順調に進み、
お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられた。毎年、3月18日に法要が行われている。
廊下橋(山里丸と西の丸を繋いでいる)
廊下橋はもともとは他にも2ヶ所あったようである。
また廊下橋は他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年に復元されたとなっているが、高松の玉藻城の蛸橋などは違うのかなあ?
人質櫓(現存)
宗門櫓とこの人質櫓が現存の建造物である。
着到櫓(復元)