日向 高鍋城(高鍋町)

高鍋城大手門跡

財部土持氏約600年間の居城、伊東・島津支配下の後、秋月氏が明治まで居城

別名

財部城(たからべじょう)、舞鶴城

所在地

宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋新小路、舞鶴公園
高鍋町役場から南西へ約700mの城山が城跡で舞鶴公園となっており、無料駐車場が完備しています。公園(二の丸跡)には高鍋町歴史総合資料館があります。
高鍋町歴史総合資料館:高鍋町南高鍋6937−2、電話0983-23-1322

所要時間

駐車場から山頂まで11~12分、今回の見学時間は50分でした。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 舞鶴公園
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、水堀、説明板、遺構説明板

満足度

★★★★

訪城日

2013/11/29

歴史等

高鍋城は平安時代初期の斉衡年間(854~57)に居城した土持秀綱から、長禄元年(1457)に土持高綱が小浪川の合戦で都於郡城主伊東祐堯に敗れて滅びるまでの約600年間、財部土持(たからべつちもち)氏の居城であった。
土持氏はもとは豊前国宇佐神宮の神官であったが、平安時代以降、日向に移り、県(あがた)を本拠に一族を配し、世にいう「土持七頭」として勢威を振るった。財部土持も七頭の一つで、長禄元年(1457)、影綱の時に伊東祐堯と戦って敗れたため、城は伊東氏の所有となった。
そして、伊東氏の家臣落合民部少輔の子孫が居城し、伊東氏48城の一つとなった。
天正5年(1577)伊東氏が島津氏に敗れてからは、島津氏の管理下に置かれ、翌6年(1578)11月、大友氏と島津氏との大激戦(高城川の合戦)の折は島津義弘がこの城に陣した。
天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐後、秋月氏に新納・福嶋・諸県3万石が与えられた。
慶長9年(1604)秋月種長が福嶋から財部城に移り、同13年(1608)正月から財部城の修築を開始し、野首の堀切を行ない、翌14年には財部城の詰の丸に三層櫓(天守)を建てた。
3代種信の寛文9年(1669)に、「財部」の名は「高鍋」に改められた。そして、種信は、寛文13年(1673)から城の大改修に取り掛かり近世の城らしい外観を呈するようになった。
以後、高鍋藩主秋月氏が居城して明治に至った。
『「高鍋町歴史総合資料館資料」、「現地説明板」、「日本城郭大系16」ほか参照』

現況・登城記・感想等

高鍋城は、詰の丸・本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸には政庁・奥御殿、詰の丸には三層櫓(天守)がそびえていたという。そして、一段下がった二の丸には八幡・白山宮・竜宮の3社などが、さらに一段下の三の丸には重臣の屋敷などがあった。
現在、高鍋城跡は舞鶴公園となり、市民の憩いの場となっています。
二の丸中央に至る岩坂門跡や、その南の方にある枡形虎口周辺の切込みハギの石垣は近世の城郭らしい雰囲気があります。
そして、山麓から山頂部の詰の丸へ登って行くと、順番に色々な遺構が見られて楽しめます。
まず、二の丸から石段の登城道を登ると、広々とした本丸へ辿り着きます。そして、更に登って詰の丸段曲輪群の一画へ出ると、その背後には近世城郭らしく高石垣が設けられています。高石垣の上が三層櫓跡で、今は梅林になっています。
詰の丸頂部付近は、木々が多くて、中世城郭の雰囲気です。
一方、山麓の三の丸跡にある高鍋農業高校の周囲には、高鍋城の水堀がよく残っていて城下町らしい風景です。
尚、登城に当たって、高鍋町歴史総合資料館の方に鳥瞰図等を頂いたり、三の丸跡や水堀の場所等々、いろいろ教えて頂いてから登城しました。お蔭で効率的に廻ることができました。
(2013/11/29登城して)

ギャラリー

高鍋城鳥瞰図(高鍋町歴史総合資料館の資料より)
当鳥瞰図は高鍋町役場社会教育課の許可を頂いて掲載しています。高鍋町歴史総合資料館の方に、この鳥瞰図を頂いてから登城しました。お蔭で効率的に廻ることができました。
00高鍋城鳥瞰図

二の丸石垣
二の丸手前は駐車場となっています。二の丸下の南北に長く延びる切込みハギの石垣が近世城郭らしい雰囲気を醸し出しています。
01二の丸石垣

岩坂門跡
03岩坂門跡

枡形虎口
岩坂門の南方には枡形虎口もあり、ここから入ったところに高鍋町歴史総合資料館が建っています。
05二の丸石垣

二の丸跡
二の丸跡には舞鶴神社が鎮座しております。かっては城内各所に八幡宮・天神宮・白山宮・龍宮宮・熊野宮・城主大明神が祀られていたと言い、明治3年、これらを合祀して秋月家歴世の霊を配した。主に八幡宮、天神宮、白山宮、龍宮宮、財部大明神の五社を祀り、町民からは「五神殿さま、五神さま」といって崇拝されているそうです。
07二の丸跡

石段
二の丸跡に鎮座する舞鶴神社を右手に見て石段を登って行きます。
09石段

戊辰の役・殉難招魂の碑
石段を登り切った処に「戊辰の役・殉難招魂の碑」が立っています。明治元年6月、高鍋藩に出征の命が下り、北越・東北を転戦し、親戚筋の米沢藩と相対することになったが、高鍋藩からの勧めによって降伏を決意することとなったという。そういえば、米沢藩の中興の祖「上杉鷹山」は高鍋藩6代藩主・秋月種美の次男でしたね。
ここから右に折れて、さらに坂道(写真右)を登って行くと、本丸への正門跡「長峰門跡」へ出ます。 
戊辰の役受難招魂の碑

長峰門跡
長峰門は、本丸への正門です。本丸へは、ここを入り、左へ廻るように入って行きます。
11長峰門跡

本丸跡
本丸には、かつては政庁、奥御殿がありました。本丸、奥御殿は、三代藩主種信の時の延宝4年(1676)に完成し、藩主は二の丸の仮住居から転居した・
13本丸跡

詰の丸
本丸から更に登って行くと、詰の丸群の最下段の曲輪へ出ます。詰の丸群の中で、この曲輪が最も広く、背後には高石垣が築かれています。
21詰の丸

高石垣
高石垣の上に、かつては三層櫓がそびえていました。
23詰の丸石垣

三層櫓(天守)跡
三層櫓跡は、梅林になっています。
25三層櫓跡

太鼓櫓跡
さらに登って行くと中世の面影が残る情景になってきます。写真左奥辺りが太鼓櫓跡でしょうか。
31太鼓櫓跡

野首堀切
詰の丸の奥には堀切が確認できましたが、初代藩主種長が入城後行なった野首の堀切でしょうか。この堀切で舌状台地を断ち切ったのでしょうね。
32野首堀切

山頂
山頂部は、これこそ櫓台(天守台)と思われるような土壇がありましたが、説明板等も全くなく、何があったのか分かりません。
33山頂

水堀
山麓の三の丸跡にある高鍋農業高校の周囲には、高鍋城の水堀がよく残っていて城下町らしい風景です。堀の周囲には、石燈籠がいっぱい立ち並んでいます。高鍋町では、毎年10月中旬、高鍋城址周辺に設置された1300基(1500基余りとも)の燈籠に火を灯す「舞鶴城燈籠祭」が開催されているそうです。
舞鶴城燈籠祭は、高鍋藩の全盛期を築いた7代藩主の名君「秋月種茂」を偲び、種茂が創設した藩校「明倫堂」の教え(人の道)に明かりを灯すために始めたものだそうです。尚、種茂は米沢藩主上杉鷹山の兄です。兄弟共に名君だったのですねえ。
41水堀

大手門へ至る土橋
43大手門への土橋

大手門跡
大手門は意外と狭かったようですね。
45大手門跡

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント