日向 綾城(綾町)

綾城本丸跡に建てられた模擬天守(歴史資料館)

足利尊氏の家臣細川義門の子が築いた城、のちに伊東氏48城の一つに

別名

竜尾城

所在地

宮崎県東諸県郡綾町北股1012
【アクセス】
「綾城歴史資料館」及び「綾・国際クラフトの城」一帯が城跡で、無料駐車場が完備されています。
綾城歴史資料館(綾・国際クラフトの城):綾町大字北俣1012、0985-77-1223

所要時間

今回の見学時間は20分でした。但し、時間がなくて建物内見学は省きました。

形状

平山城(標高132m、比高40m)

現状・遺構等

【現状】 「綾城歴史資料館」及び「綾・国際クラフトの城
【遺構等】 曲輪、空堀、土塁、模擬天守、模擬門、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2013/11/30

歴史等

綾城のはじまりは、元弘年間(1331~1334)、足利尊氏の家臣であった細川義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠は収納使として綾を領有し、綾に居館(山城)を構え、綾氏と称した頃と考えられる。
綾氏は数代城主として、この地方を治めていたが、室町時代8代将軍義政のころ、都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となった。したがって綾城も伊東氏48城の一つとなり、山東(伊東方)の拠点として重要な役割を果たした。
天正5年(1577)伊東氏が島津氏に敗れ、本拠である都於郡城を捨てて、豊後に落ちてより、島津の支配下となった。
元和元年(1615)江戸幕府の一国一城制度により、綾城は廃止となり、島津氏の地頭が置かれた。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

綾城は、東南に突き出した舌状台地に曲輪を並べ、曲輪間を堀切で断ち切った典型的な連郭式山城です。
遺構として残るのは、堀切だけですが、その堀切は中世のものとしては、非常に大規模で見応え充分です。
現在、綾城跡の本丸跡には「模擬天守(綾城歴史資料館)」が建ち、二の丸跡には「綾・国際クラフトの城」が建てられている。
模擬天守は、昭和60年に日本城郭協会の中世山城の考察に基づく戦国時代初期の城楼建造物で、地元産出木材を使って地元の大工により建てられたのだそうです。
それだけに、模擬とはいえ、主柱に栂の75cm角材が使用された木造2層物見櫓付きの天守は、基礎は縦20m×横24mで、高さは19mの規模で、当時を窺わせる重厚な風格があります。
また、「綾・国際クラフトの城」は、手作りの里「綾町」で育み守り継がれてきた伝統工芸を国際的に広め後の世代に継ぐため殿堂として建設されたそうですが、主殿建築を模したものになっています。
(2013/11/30訪れて)

ギャラリー

綾城の遠景
「綾・国際クラフトの城」を目指して来ると、小高い山の上に綾城の天守が見えて来ます。
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山麓から綾城模擬天守を
東麓から見上げた天守ですが、なかなか絵になります。
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三の丸と四の丸間の堀切
山麓から見上げる天守を撮ったあと、「国際クラフトの城」を目指して登って行くと、三の丸と四の丸間の切り通しの道路に出ます。かなり幅が広いですが、どうやら道路建設に伴って拡張されているようです。
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三の丸へ
駐車場(四の丸跡)へ車を停めて、先程の堀切に架かる橋(上写真)を渡り、国際クラフトの城へ向かうと、模擬冠木門が見えて来ます。ここが「綾城歴史資料館」及び「綾・国際クラフトの城」への入城口です。冠木門の両側には、分厚い土塁がありますが、これは「国際クラフトの城」を建設するに当たって、新たに築いたものだそうです。
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二の丸と三の丸間の空堀(西側)
中世の城としては、かなり規模の大きな空堀です。
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二の丸と三の丸間の空堀(東側)
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二の丸入口に建てられた城門
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本丸へ
二の丸と本丸間も堀切で断ち切られ、橋が架かっています。橋の向こうに天守が見えます。
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本丸と二の丸間の堀切
本丸と二の丸間の堀切は、大規模というよりも「巨大」といった方が相応しいでしょう。幅20mほどあり、深さも10m近くあるかもしれません。恐らく、自然の地形に手を加えたものだと思われます。
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本丸跡に建つ模擬天守
模擬天守は、昭和60年に日本城郭協会の中世山城の考察に基づく戦国時代初期の城楼建造物で、地元産出木材を使って地元の大工により建てられたのだそうです。
模擬とはいえ、主柱に栂の75cm角材が使用された木造2層物見櫓付きの天守は、基礎は縦20m×横24mで、高さは19mの規模で、当時を窺わせる重厚な風格があります。
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