東面の石垣
秀吉の九州征伐後、島津氏16代義久が謹慎の意を表すために移り住んだ隠居城
読み方
とみのくまじょう
所在地
鹿児島県霧島市隼人町住吉浜の市
国道223号線を挟んで、富隈小学校の対面(東)一帯(稲荷神社・NHK鹿児島放送局隼人ラジオ放送所など)が城跡。
富隈小学校:霧島市隼人町真孝283−1、電話0995-42-0227
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 稲荷神社、NHK鹿児島放送局隼人ラジオ放送所、公園等(市指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2012/11/17
歴史等
富隈城は島津16代義久によって築かれた城で、平地にあり、小山を本丸代わりにした平山城です。
この城は東西約150m、南北約250mの方形で西・東・北側に堀があったといわれ、現在は北と東側に堀の跡が残っています。城の造りは、天守閣がない館形式で城門も茅葺きであったということです。西側や東側には、野面積という技法で積まれた石垣が残っていますが、これは肥後8代の種山の石工が築いたものだと伝えられています。
義久は、文禄4年(1595)から、慶長9年(1604)に舞鶴城(国分新城)に移るまでの足掛け10年間ここに居住しました。義久が富隈に来たのは、豊臣秀吉の島津征伐に敗れ、降伏した意思を表すため、本城である内城(鹿児島市)を弟義弘の息子家久に譲り、富隈に隠居の形をとったためだといわれています。
義久在城の間、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどが相次ぎ、日本は激動し、島津氏にとっても苦難の時代でした。義弘が関ヶ原で家康の本陣を突き、敵中突破してわずかの家臣と帰り着いて、兄と対面したのもこの富隈城でした。朝鮮出兵にも富隈衆が多数参戦しました。また秀吉の勘気にふれ、文禄元年(1592)薩摩の坊津に流された近衛信輔も、文禄5年(1596)許されて帰京の途中この城に立ち寄り、歌会や能楽等を行っています。
『現地説明板他より』
現況・登城記・感想等
富隈城は、島津義久が豊臣秀吉に降伏して、龍伯と号し、謹慎の意を表すために移り住んだ隠居城であり、他の中世の薩隅の城と異なり詰城を持たない平城であり、防御面は非常に弱い城である。
富隈城跡の大部分は、稲荷神社・公園、NHK鹿児島放送局隼人ラジオ放送所の敷地になっているが、肥後8代の種山の石工が築いたという、なかなか立派な野面積みの石垣が良好に残っている。見落としてまったが、東南角の道路には加藤清正寄進と伝えられる巨石「清正石」もあるという。
また、かつては、周囲を堀がめぐっていたそうだが、窪みのある地形がその堀跡のようだ。
城の中央部には、小高い丘(本丸?)があり、そこからは桜島もよく見え、なかなかの眺望だ。
(2012/11/17登城して)
ギャラリー
東面の石垣
城の周囲は石垣が組まれており、東面・西面・南面には野面積みの石垣が良好に残っている。
南面の石垣
大手門跡
大手門は、城の東南の南角寄りにあるが、中はNHKラジオ放送所の敷地になっており入って行けない。
城内へ
城域の南部分3分の1はNHK放送所の敷地になっていて入ることができないが、北側3分の2の大部分は公園と稲荷神社の敷地で入城できる。
稲荷神社脇の石垣
城の東側には、島津氏ゆかりの稲荷神社が祀られ、その脇辺りにも石垣が確認できる。
本丸(小山)
城の中央部には、本丸代わりの小山がある。
城址碑
山裾には立派な城址碑が建てられている。
本丸
小山の上は、狭いながら削平されており、礎石のような石が見られた。小さな建物が建てられていたようだ。
本丸からの眺望
低い小山ながら、本丸跡からの眺望は素晴らしい。残念ながら、中央奥の桜島は霞んでいて見辛いですね( ̄ー ̄;。
本丸から城跡を見下ろす
こうして見下ろすと、城の造りがよく分かります。真下が公園になり、中央やや左奥にNHK放送所があるが、これらが城域である。往時は、放送所のすぐ下辺りまで海水が打ち寄せていたそうだ。