大隅 隼人城(霧島市)

山麓の国分高校から隼人城跡を望む

熊襲・隼人の居城との伝承、江戸期には島津義久の隠居の城「舞鶴城」の詰城に

所在地

鹿児島県霧島市国分上小川、城山公園
【アクセス】
左手に国分高校を過ぎて300m程行った道の突き当たりを左折し、道なりに山へ上がっていくと城山公園に着く。この城山公園が城跡。
国分高校:霧島市国分中央2丁目8番1号、電話0995-46-0001

形状

山城(標高192m)

現状・遺構等

【現状】 城山公園
【遺構等】 空堀(切通し)、土塁

満足度

?????

歴史等

伝承によると、隼人城は熊襲・隼人の居城であったといわれていたが、発掘・学術調査の結果、伝説のとおり、縄文・弥生期から古代にかけての住居跡や石器・土器類をはじめ、炭化した籾などが多く出土し、古代に人々が居住していたことを裏づけた。
応永(1394~1428)の頃には、隼人城には税所淳弘が居城したと伝えられている。
南北朝期はめまぐるしい変転があるので、詳細は明らかでない。
大永5年(1525)、本田親尚が本田兼親を讒して橘木城を奪ったので兼親が隼人城を築いて拠った。
慶長9年(1604)、島津義久が当城の南麓に舞鶴城(国分新城)を築いて、富隈城から移ってきた時、当城も義久の城塞(詰城)となった
『日本城郭大系18より』。

現況・登城記・感想等

富隈城を見終わったのが17:00。さすがに西国といえども、この季節、辺りは薄暗くなってきた。
しかし、折角の遠出である。もう一城くらい何とか登城したいと思い、舞鶴城(国分新城)にしようか、この隼人城にしようか迷った末、名前に魅かれて隼人城にした。何てったって、鹿児島といえば、薩摩隼人が頭に浮かぶのです(*^_^*)。
ところが、これが失敗でした(;>_<;)。舞鶴城は、今は国分高校や国分小学校になってはいるものの、石垣や堀、朱門が残っているのです。一方、隼人城は城山公園と化して、切通しの道がある程度で、ほとんど何も残っていないのです。
おまけに、山の上へ登る道が工事中で、結局、その公園にも辿り着けず、山麓から写真を撮るだけとなってしまいました(/。ヽ)。
(2012/11/17)

1年ぶりに鹿児島へ向かい、舞鶴城跡を訪れました。
今回も、隼人城跡は、時間の関係で南麓から写真を撮るだけとなりましたが、平時の城「舞鶴城」と詰の城「隼人城」の位置付けがよくわかりました。
(2013/12/01)

ギャラリー

南麓から隼人城跡を見上げる
南麓の舞鶴城跡は、現在、国分高校と国分小学校となっています。その前面(南西)には水堀が残っていますが、その前から東北東後方に隼人城跡がよく見えます。
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