日向 志布志城(志布志市)

志布志内城本丸上段の東下の堀切(搦手へ続く堀底道)

日向伊東氏との前線拠点の城、シラス台地を刻む浸食谷を利用して築かれた城

所在地

鹿児島県志布志市志布志町帖
【アクセス】
志布志小学校の西に無料駐車場があり、その少し北に内城への登城口があります。尚、駐車場に「志布志まちあるきマップ」が載った案内板があるので参考にして下さい。
志布志小学校:志布志町帖6398、099-472-1229

所要時間

内城の見学時間が約1時間でした。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2013/12/01

歴史等

志布志城の正確な築城年は不明ですが南北朝の時代には松尾城と内城の存在している事がわかっています。その後、高城と新城が築かれたと考えられています。建武3年(1336)に、「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。この時の志布志城は、築城時期が最も早いと考えられている松尾城だと思われます。
その後、正平3年(1348)に楡井頼仲が松尾城に入っていますが、延文2年(1357)、大崎胡麻崎城と志布志城を攻略され、宝満寺で自刃したと伝えられています。楡井氏の後は新納氏が松尾城を治めてましたが、志布志内城は新納氏と対立した畠山氏が有していました。この時点で内城と松尾城が存在していた事がわかります。
新納氏は島津氏久の救援を受けて畠山氏を攻め、志布志内城を占領しました。これにより志布志は島津氏久の所領するところとなりました。氏久が内城に入ったのは貞治4年(1365)頃と推定されています。
長録2年(1458)以降、日向南部で伊東氏等との合戦が相次ぎ、志布志城は前線の拠点として利用されました。天文5年(1536)、島津氏内の勢力争いによって志布志城の新納氏は豊州島津氏、北郷氏、肝付氏に三方より攻められて降伏しました。それにより、新納氏は志布志を去り、志布志城は豊州島津氏が治めることになりました。
その後、永禄元年(1558)以降、肝付氏が毎年のように志布志を攻め、同5年(1562)に攻め落とされ肝付氏が志布志城に入りました。その肝付氏も天正4年(1576)には伊東氏に敗れて勢力を失い、島津氏に降伏しました。同5年(1577)より志布志は島津氏が領有するところとなり、志布志に地頭が置かれました。以後、大隅における島津氏の支配が安定したために、前線の拠点としての志布志城の役割は低下し、結果として廃城に至ったと考えられています。
志布志市ホームページより』

現況・登城記・感想等

志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つの山城で構成されています。
これらは、年代を経て順次築かれていったようで、最初に築かれたのは松尾城のようですが、最終的には内城が中心的な役割を果たしていたようで、地元では内城の中心となる曲輪を本丸と呼んでいるといいます。
内城(他の城もそうでしょうが)は、知覧城などと同様、シラス台地を刻む浸食谷を利用して築いた城で、南北600m、東西300mの規模があり、大きく3つの部分に分けられ、それぞれ本丸、中野久尾、大野久尾と呼ばれています。
曲輪間には、浸食谷を利用した大規模な空堀が縦横無尽にめぐり、各曲輪がそれぞれが独立しているのが特徴ですが、地形が複雑なため、迷いそうになります。尤も、有難いことに、城内の至る所に志布志市教育委員会によるコースマップが設置されてので、何とか迷子にはなりませんでしたが・・・( ̄ー ̄;。
また、天然地形を利用した空堀は、知覧城ほどには整備されていないため、余計に迫力があります。
中でも、本丸の東側の搦手へ続く堀底道(堀切)は堀底が2~3mと狭いのに比して両側の崖は15~20mほどあり迫力満点で、薄暗くて不気味でさえあります。また、城の西側の延々600m近く延びる大空堀も見事というしかありませんw(*゚o゚*)w。
今回は時間の関係で内城だけの登城となりましたが、それでも充分満足のいく城跡で、満足度★★★★★でした。
(2013/12/01登城して)

ギャラリー

志布志まちあるきマップ(現地案内板より)
志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つの山城で構成されています。志布志小学校の西に無料駐車場があり、「志布志まちあるきマップ」が載った案内板があるので参考にしました。
00志布志まちあるきマップ

志布志内城跡散策コースマップ
志布志内城は、大規模な上、地形が複雑で、ややもすると迷いそうになりますが、有難いことに城内の至る所()に志布志市教育委員会によるコースマップ(下写真)が設置されています。
IMG_7430

志布志内城縄張図(内城本丸跡説明板より)
内城は、、シラス台地を刻む浸食谷を利用して築いた城で、南北600m、東西300mの規模があり、大きく3つの部分に分けられ、それぞれ本丸、中野久尾、大野久尾と呼ばれています。曲輪間には、浸食谷を利用した大規模な空堀が縦横無尽にめぐり、各曲輪がそれぞれが独立しているのが特徴です。
01志布志内城縄張図

内城と松尾城
駐車場の西側の道路を北の方へ向かって行くと、道路の両側に小高い山が見えます。右側が内城跡で左側が松尾城跡です。120~130mほど北進すると、右へ曲がる路地がありますが、それが内城への入口です。
11内城と松尾城

内城への入口
路地を右へ曲がると、志布志麓の武家屋敷の石垣と生垣があります。そこを進み、突き当りに設置された内城の説明板前を左へ曲がります。
13内城への入口

内城登城口へ
左へ曲がり、すばらく進むと登城口(写真やや左の白い標柱)が見えて来ます。この辺りで、既に中世の城の雰囲気があります。
15登城口IMG_7371

登城口
登城口は、いきなり堀底道になります。右上は矢倉場です。
17大手口

正面上に本丸が
堀底道を少し登って行くと、正面に高い城壁が見えて来ます。本丸下段南側の城壁です。城壁の下を左へ進むと城の西側の大空堀へ行きますが、右へ進み、本丸へと向かうことにしました。
19本丸南下

本丸下段東側の空堀
21本丸下段と曲輪2間の堀切

本丸下段への虎口
本丸への虎口は、本丸上段と本丸下段の境目下から、下段と上段へそれぞれ別の虎口へ登って行けるようになっている。まずは、下段へ向かいました。
25本丸虎口

本丸下段
本丸は、上下段に分かれていることから、それぞれが本丸上段、本丸下段と呼ばれている。本丸下段は木が取り除かれて整備され、周囲には低いながらも土塁がめぐっています。
27本丸下段

本丸上段へ向かう
本丸上段と下段は2~3mほどの段差があります。
29本丸上段へ

本丸上段
本丸上段は、下段の3倍ほどの広さで、木々が植えられています。
31本丸上段

本丸土塁
本丸周囲も土塁がめぐっています。
32本丸土塁

本丸櫓台
本丸の北隅には櫓台があり、新納氏の守護神三宝荒神が祭られています。
33本丸三宝荒神

本丸櫓台から空堀を見下ろす
櫓台の奥(北側)の空堀は、大規模で迫力があります。当然のことながら、とても登って来れそうもありません。
35本丸背後の空堀

本丸上段の虎口
本丸上段の虎口は、折れ曲がって入るようになっており、下段虎口と較べると多少複雑です。
37本丸上段への虎口

本丸上段の東下の大堀切①
本丸東下の道を北へ向かって行くと、右手の下の方に、クレバスのような割れ目が・・w(*゚o゚*)w・。自然が創り出した深い谷に手を加えた大堀切です。薄暗い上に、あまり整備もされていないので、迫力があるだけでなく不気味です( ̄ー ̄;。

41堀切1 42堀切2

本丸上段の東下の大堀切②(搦手へ続く堀底道)
それでも勇気を出して、堀底へ下りて行くことにしました(苦笑)。崖下には、切り取った竹などが放りっ放しになっています。堀底の幅は2~3mほどと狭いのに比し、両側崖上までは15~20mほどあり、迫力満点です。この堀底道を下りて行くと搦手へ出るようでしたが、途中で引き返しました。
43堀切

本丸上段と中野久尾間の空堀
本丸上段の東下の道まで戻り、本丸北側を西へ向かって進むと、中野久尾間との空堀へ出ます。この空堀も、規模が大きくて見応え充分です。
45本丸と中野久尾間の堀切

大空堀へ
本丸上段と中野久尾の間の空堀を西へ向かって行くと、大空堀へ出る。 
51大堀切へ

大空堀①
この内城の西側に延々600m近く延びる大空堀は見事というしかありませんw(*゚o゚*)w。
53大堀切2

大空堀②
53大堀切3

中野久尾中央部を区画する空堀
55中野久尾の堀切

中野久尾(北西部の曲輪)
57中野久尾

中野久尾の土塁
周囲には、結構しっかりした土塁がめぐっています。
59中野久尾土塁

中野久尾と大野久尾の間の空堀
61中野久尾と大野久尾間の堀切

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コメント

(2021/03/12)

大隅じゃないゾ

タクジロー(2021/03/13)

失礼しました。
てっきり大隅だと思い込んでいましたが、日向なんですね。
ご指摘ありがとうございます。
早々に訂正します。

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