ほぼ原形をとどめた曲線を描いた石積みがきれいな志慶真門郭
三山時代の北山の城、各郭周囲のカーブを描いた石塁が美しい
別名
北山城
所在地
沖縄県国頭郡今帰仁村今泊
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】世界遺産
【遺構等】郭、石垣、平郎門(復元)、説明板、石碑
満足度
★★★★★
訪城日
2000/12/08
2002/11/25
歴史等
いつ誰によって築かれたかは不明ではあるが、発掘調査の成果から13世紀頃には城造りを始めたことが分かっている。14世紀の中国の史書に琉球国山北王「怕尼芝(はにじ)」「珉(みん)」「攀安知(はんあんち)」の三王が登場する。この頃の沖縄は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立の時代」であった。「怕尼芝」「珉」「攀安知」の三王は、その一国として北部地域と奄美諸島を支配下として中国と貿易をしていた。
しかし、1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志(しょうはし)によって滅ぼされ、北山としての歴史を閉じる。北山の敗北後、中山は北部地域の管理とし監守を設置。1422年以後、監守の居城としてグスクを利用する。
しかし、1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上した。監守が住まなくなって以後は御嶽とし精神的拠り所として参拝者が訪れている。
『今帰仁城跡管理事務所発行パンフレットより』
現況・登城記・感想等
沖縄には札幌在住時代の2000年12月8日に行ったのが初めてである。当日の朝の札幌は非常に寒く、出発した時の気温が-9℃で、那覇に着いたら26℃である。何と35℃もの差があった。まさに真冬から真夏の真っ只中に来たのである。当然、空の色は真っ青でねずみ色の北海道の空とは大違い。
その沖縄で最初に訪ねたのが、世界遺産に登録されたばかりのこの今帰仁城である。
まず、登り始めて最初に出会ったのが平郎門である。よく崩れ落ちないなあと思いながら、石組みの平郎門をくぐった(尤も、現在の門は昭和37年に復元修理されたもの)。
平郎門をくぐると石段が続いており、両側には桜の木々が植えてある。花見の季節はいいんだろうなあと思いながら、主郭(本丸)まで登って振り返って眺めると、大隅(ウ-シミ)、御内原(ウーチバル)が、一方、主郭の奥の方には志慶真門郭(シジマジョウカク)の美しい石塁が見える。
それら各郭の周囲をめぐる石塁は本土の城とは違い、全て緩やかなカーブが描かれている。
それほど高く積まれてはいないが、周りの山々や、その山並みの向こうに見える海原(東シナ海)と調和がとれて本当に素晴らしい光景である。
(2000/12/08に登城して)
ギャラリー
今帰仁城鳥瞰略図
①外郭:高さ2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いている。発掘調査で屋敷跡が確認された。
②平郎門:今帰仁城の正門で、現在の門は昭和37年の琉球政府時代に修復された。
③大隅(ウーシミ):城内で一番広い郭で、馬の飼育や調教をした場所と伝えられている。最も高い石垣が築かれた堅牢な郭である。
④カーザフ:カーは川や湧泉のこと、ザフは迫で谷間を示す言葉で、かつて、ここは水が湧き出る小さな谷間であったのであろう。
⑥大庭(ウーミヤ):今帰仁城で行われる催物の会場になった場所とみられる。大庭を取り囲むように主郭正殿、北殿、南殿の建物が配置されていた。
⑦御内原(ウーチバル):女官達の生活の場と伝えられる。
⑧主郭(俗称本丸):発掘調査で掘り出された翼廊のある基壇や築城の造成の様子が知れる版築工法を見ることができる。また、看守時代の建物の礎石などもある。
⑨志慶真門郭*城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられる。発掘調査にり4つの建物が確認されている。
主郭(本丸跡)
平郎門から主郭までは5分ほどで登ってこれます。
志慶真門郭① ~クリックにて拡大画面に~
曲線を描いた石積みは、ほぼ原形をとどめている。発掘調査で武家屋敷跡が確認されている。志慶真門(裏門)の南側は近世初期まで志慶真村があった場所である。