復元された首里城正殿
琉球王府、第一・第二尚氏王統の王城
所在地
沖縄県那覇市首里金城町(首里城公園)
形状
平山城(標高:約130m)
現状・遺構等
【現状】首里城公園、(世界遺産)
【遺構等】石垣、石門、復元(城門、正殿、南殿、北殿)、石碑、説明板、遺構案内板
満足度
★★★★★
訪城日
2000/12/10
2002/11/26
歴史等
沖縄では11~12世紀頃から各地に按司(あじ)と呼ばれる豪族が出現し勢力を争うようになった。やがて、その中から按司の統合が進み、14世紀初め、北山、中山、南山という三つの小国家が成立して、世に三山時代といわれる時代となった。
三山の中で一頭地を抜きん出たのは中央部を勢力圏とする中山であった。1416年、中山の覇者尚巴志(しょうはし)が北山を滅ぼし、さらに1429年には南山をも滅ぼして、ここに尚巴志による統一王朝(第一尚氏王統)が成立した。第一尚氏王統は、1470年内間金丸(うちまかなまる)によって滅ぼされ、7代63年間で終わる。金丸は、即位後尚円と号して第二尚氏王統が成立した。第二尚氏の王朝は、1609年、薩摩・島津氏の侵攻を受けて、薩摩藩の属領となるが、以後も沖縄は、独自の官制・法制・土地制度のまま、第二尚氏の王国として明治まで続いた。
この第一、第二尚氏王統の首都とされたのが首里であり、その王城が首里城である。首里城がいつ築かれたかはよく分かっていない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
もともと中山の本拠地は浦添にあったが、首里へ移された時期については14世紀末の察度王の時代とする説と15世紀初めに尚巴志王の時代とする説とがあり、後者が有力視されている。
首里城は首里台地の南の端、標高130mの丘陵上にあり、東西400m、南北270m、面積4万6,167㎡、平面は蠣のような形をしている。二重の城壁(石垣)で囲まれているが、尚巴志時代と第二尚氏王統の尚真王時代に拡張整備されこのような形になった。
『日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)参照』
現況・登城記・感想等
まずは、かの「守礼門」をくぐって登城する。守礼門は「札幌の時計台」「高知のはりまや橋」と共に、「日本3大ガッカリ名所」と云うらしいが、結構かっこいいと思った。
そして「歓会門」「瑞泉門」「漏刻門」「奉神門」といくつもの門をくぐって登城するが、どの門も素晴らしい。
また、長く連なった高石垣の城壁は見るものを圧倒する。そして「正殿」をはじめとする建物群も実に素晴らしい。沖縄の他のグスクもそうであるが、改めて沖縄の築城技術の高さが窺い知れる。
ただ、首里城の建物の色彩や形はあまりにも優雅で、私には「お城」というより「御殿」というイメージが強い。やはり、この城郭は日本或いは中国、沖縄県というより琉球のものであると感じる。
(2000/12/10、2002/11/26登城して)
ギャラリー
守礼門
「守礼」とは「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額には「守礼之邦」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。
1527~55年の第二尚氏4代目尚清王の時に建立されたが、第二次世界大戦の沖縄戦で破壊された。現在の門は昭和33年(1958)に復元されたもので、その後、今日まで沖縄を象徴する観光施設となっている。
尚、2000年の記念紙幣2千円札の絵柄にもなっているが、ほとんど見かけなくなったが、今でも沖縄ではかなりしようされているそうだ。
また、「札幌の時計台」、「高知のはりまや橋」とともに「日本3大ガッカリ名所の一つ」とも言われたりしているが、私は結構かっこいいと思うけどねえ。
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
守礼門をくぐり、しばらく行くと左手に園比屋武御嶽石門が現れる。
琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。
門の上部に掛けられている扁額の内容から、尚真王代の1519年に建てられたことが判明している。
琉球の石造建造物の代表的なものであり、昭和8年(1933)に国宝に指定されたが、沖縄戦で一部破壊され、昭和32年(1957)に復元された。
歓会門(かんかいもん)
首里城の城郭(外郭)内へ入る第一の正門で、「歓会」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
創建は尚真王代の1477~1500年頃で、沖縄戦で焼失したが、昭和49年(1974)に復元された。
門の両側には一対の石造のシーサー(獅子)像があるが、これは魔除けの意味で置かれている。
外郭北面の石垣
首里城は第二尚氏王朝時代の15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭と、第一尚氏王朝時代の15世紀前半ごろに建設された内郭の二重の城壁に囲まれている。
首里城の石積みは直線的な本土の城の石垣とは異なり、たなびくカーテンのようになめらかなカーブを描いている。それは、グスクに用いられている「琉球石灰岩」が柔らかく加工がしやすいこともあるようだ。
他にも、沖縄の世界遺産の「城(グスク)」を回っていると、青空に映える城壁の雄大さと曲線美に魅了されることが多い。
龍樋(りゅうひ)
歓会門をくぐり、主郭へ向かって進むと、右手に「龍樋」が・・・。龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられたという。
この水は王宮の飲料水として使われ、また中国皇帝の使者・冊封使が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館」という宿舎まで、毎日ここから水を運んだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものだという。
瑞泉門(ずいせんもん)
「瑞泉」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。
門の手前右側にある湧水「龍樋」にちなんでこのように名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。
創建は1470年頃でだが、第二次世界大戦の沖縄戦で焼失したが、平成4年(1992)に復元された。
尚、写真中央に見えるのは「漏刻門」で、左端の建物は主郭部の北殿等々の建物群。
広福門(こうふくもん)
「広福」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門」は別名「長御門(ながうじょう)」とか「中御門(なかうじょう)」といい、第四の門である。
神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。
創建年は不明である。明治末期頃に撤去されたが、平成4年(1992)に復元された。
尚、肝心の御庭(うなー)へ入る最後の門である奉神門(ほうしんもん)の写真を撮り忘れた(;>_<;)。
正殿と御庭(うなー)
首里城正殿は首里城の中心であり象徴的な建造物で、平成4年(1992)に御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して復元された。
北殿内に展示された首里城模型
北殿は創建は1506~1521年頃とされ、重要案件を詮議した政務の中枢機関であり冊封使を歓待した場所でもあった。 現在は、展示コーナーや映像コーナーなどがあり、売店や休憩コーナーもある。 写真の模型は、正面奥が正殿、右が南殿、左が北殿。
久慶門(きゅうけいもん)
写真右が久慶門、左奥は歓会門。
久慶門は、主に女性が使用したと言われる首里城北側の通用門で、現在は城郭内観覧順路の出口となっている。
というわけで、主郭部見学後は右掖門(うえきもん)を通り久慶門から出て下城した。