マリエンベルク要塞(ヴュルツブルク)

マイン川越しに望むマリエンベルク要塞(2006/05/28に家内登城時の写真より)

ロマンティック街道の北の起点・ヴュルツブルクの西方の丘の上に聳える城塞

ドイツ語名

Festung Marienburg

所在地

バイエルン州ヴュルツブルク(Würzburg)

歴史等

マリエンベルク要塞のあるマリエンブルク(マリア丘陵)は、古くは「ヴィルツェベルク」と呼ばれ、 紀元前1000年頃には既にケルト人の砦があったという。
1200年頃の司教コンラッド・フォン・クヴェアフルトにより大規模で堅固な城塞建設が開始され、その後も何度も増改築が施されていった。 1253年から1719年まで、マリエンベルク要塞はヴュルツブルク司教の居館であった。
15世紀後半から16世紀前半のドイツ農民戦争でも、この堅固な城塞は破られることはなかった。
しかし、ユリウス・エヒター・フェン・メスベルブルン司教の時代の1600年の聖木曜日の夜に発生した火災により、 半分が廃墟と化したのを契機に、中世的な城塞をルネッサンス様式の城館として再建した。
17世紀初頭の30年戦争(1618-48)で戦場となったドイツの破壊と参禍は凄まじく、ドイツの人口が半分になってしまったという。 この戦争には、当時「北の獅子」と呼ばれたスウェーデンも参戦した。軍を率いたのは軍事の天才で国王のグスタフ・アドルフであった。 グスタフ・アドルフは、神出鬼没のスピードで移動しては、大砲の集中砲火で群がる敵を蹴散らし、なぎ倒し、圧倒して、 破竹の勢いで南に攻め上ってきた。そして、1631年10月18日マリエンベルク要塞も攻撃を受け、それまで鉄壁を誇った中世の要塞も、 あっけなく陥落した。
その後、帰還した司教たちがスウェーデン軍を追い払った後、要塞はバロック建築に改造され、難攻不落のものとなった。
そして、1720年に市街地にレジデンツの建設が始まり (1744年完成)、大司教領主が居城を移すと、第2次世界大戦時の1945年5月16日のヴュルツブルク空襲で爆破されるまで、 あまり手入れもされず兵営として使用されていた。そして、1950年に再建された。
『現地購入ガイドブック「Würzburg」他参照』

現況・感想等

バスがヴュルツブルクに近づくと、丘の上に聳えるマリエンベルク要塞が見えてきた。また、 市街に入ってもいろんな所から臨むことができた。
その姿は、まさに中世の城というに相応しくビジュアル的にも綺麗でかっこいい。
しかし、残念ながら今回のツアーの見学予定はレジデンツのみ(>_<)/
(2010/09/16)

ギャラリー

バスがヴュルツブルクに近づくと、丘の上に聳えるマリエンベルク要塞が見えてきた。大慌てで、 何とか写真に収めることが出来たと思ったら、 何と建設用か工場かの重機がもろに邪魔をしてくれたw(*゚o゚*)w

市街地からも
ヴュルツブルク市街に入っても、 丘の上の要塞はいろんなところから眺めることができた(^-^)

レジデンツ前の広場から
ヴュルツブルクは歴史のある町で、見どころはいっぱいあるが、 今回のツアーでの見学はレジデンツだけ(^_^;)
レジデンツでは三銃士の映画のロケをやっており、オーランド・ブルームが来ているというので、大変な人だかりだった。 レジデンツ前の広場からも要塞はよく見えたが、まさに中世の城というに相応しくビジュアル的にも綺麗でかっこいい。 登城できないのが全くもってザンネン!!

【家内の登城時の写真から】
2006/05/28に家内が登城したので、その時の写真で一部紹介。
(アルテ・マイン橋脇からマイン川越しに望むマリエンベルク要塞)

(ズームアップ)

(要塞の搭と城門)
14世紀にマリエンブルク要塞は、多数の搭を擁する周壁が整えられ、 防衛技術的に当時の最先端の状態になった。

(バロック様式の庭園) Furstengarten
ゴンドラを模した形状で、かつては司教の休息場所や展望バルコニーとして利用されていた。

(庭園からの眺望)            ~クリックにて拡大画面に~

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