テオドシウスの城壁西面
古代イスタンプール(旧市街地)防御のために築かれた周囲をめぐる城壁
トルコ語名
Istanbul Sehir Surlari
所在地
トルコ共和国シスタンブール県イスタンブール市(Istanbul)
訪城日
2008/03/13、03/20
2016/05/23
歴史等
イスタンブールは世界で唯一2大陸に跨る都市である。ボスフォラス海峡によりアジア大陸側とヨーロッパ大陸側に2分されている。更に、ヨーロッパ側地区は金角湾で南部の古代イスタンブール(旧市街地)と北部のバラタ、ベイオール地区に分割される。
古代イスタンブールに、紀元前7世紀頃、最初の都市ビザンチウムを造ったのは、ギリシャ人入植者(イオニア人)たちで、旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。
この町はアジア州のアナトリア半島とヨーロッパ州のバルカン半島を隔てるボスポラス海峡のヨーロッパ側にある半島に位置し、海峡を抜けて北に出れば黒海、南に抜ければエーゲ海に至る海上交通の要衝である。スキタイを敵に回してのペルシャ戦争では、ペルシャ王のボスポラス海峡突破を妨害する目的で船を配置させた。町は紀元前479年のプラタイアの戦いまでペルシャの統治下に置かれ、その後にはスパルタの支配下となった。
196年、ローマ皇帝セプティミウス・セベルスが征服し、全滅させたが、息子の要望によって都市の再建を行い、その過程で新城壁や宮殿等で市の拡張を図ったとされている。
330年、コンスタンチヌス一世は都市をコンスタンチノープルと命名し、ローマ帝国の首都であると宣言したため非常に繁栄を見ることとなった。そして都市はより大きな城壁で包囲され、教会、宮殿等が建てられた。
彼の後継者テオドシウス一世は、二人の息子に帝国を2分割して与えた。こうして帝国は東と西に別れ、東はアルカディウス帝、西はホノリウス帝の統治下に置かれるようになる。西ローマ帝国は5世紀末に滅びるが、東ローマ帝国は1453年にトルコ軍に征服されるまで継続した。
コンスタンチノープルは皇帝ユスチニアヌス帝の統治下(527-565)に黄金期を迎えたが、7世紀、8世紀になるとアッバース、ペルシャ、アラブの攻撃を受けた。そしてイスラム文化の移入の結果、東ローマ帝国はマケドニア王朝のもとで第2次黄金期を迎えた(867-1057)。
しかし、後に1071年の東におけるビザンチン軍の敗北、西のノルマン人の脅威、そして十字軍への経済的負担が弱小化を招く要因となる。
十字軍は豊かなコンスタンチノープルを見ると、彼等の本来の目的を翻し、アラブからの聖地奪回の代りに、この富んだ都市の剥奪を試みた。1204年、第4次十字軍は都市を破壊しラテン帝国を建設した(1204-1261)。ビザンチン皇帝はニカエア(イズニク)に逃れ、ここに小ビザンチン帝国を建国した。
その後、1261年にビザンチン帝国(東ローマ帝国)は復興し、1453年のトルコ軍による征服まで継続した。この征服と同時に新しい時代が到来し、イスタンプールはオスマン帝国の首都として、その後470年間の繁栄を見るのである(1453-1923)。
新たな支配者であるオスマン帝国は、ハギア・ソフィア大聖堂やパントクラトール修道院付属教会、城壁近くのコーラ修道院などのキリスト教の教会をモスクに転用した。このとき、モザイクの壁画は漆喰に塗りこめられたので、かえって20世紀に漆喰がはがされるまで無事に保存されることになる。また、古代ビュザンティオン市の跡地にトプカプ宮殿が造営され、16世紀にはビザンティン建築の精華を十分に吸収したムスリム(イスラム教徒)の建築家ミマール・スィナンによってスレイマニエ・モスクなど、すぐれたトルコ・イスラム建築が建てられた。17世紀にはハギア・ソフィア大聖堂改めアヤソフィア・モスクと並ぶようにスルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)が建設されるなど、モスクのミナレットと大ドームが林立するイスタンブール歴史地域の美しい景観がはぐくまれていった。
第1次世界大戦で敗れたオスマン帝国の領土は連合軍に間で分割されはじめ、イスタンブールは連合軍に支配された。
そこで、アタテュルクの陣頭のもと独立戦争を起こした。そして1922年、最後まで残ったギリシャ軍を追放し、1923年10月29日にアタテュルクは共和国宣言をし、自ら大統領となった。そして、1928年、アタテュルクはトルコ近代化政策を実行に移した(ラテナルファベットの導入、太陽暦の採用、一夫一婦制、婦人参政権等々)。
『「現地購買冊子」、「サイト・ウィキペディア」等々参照』
現況・登城記・感想等
今回のツアーに「イスタンブールの城壁」の見学は含まれていなかったが、ラッキーなことに最初と最後の宿泊ホテルは、ミレット通りのトプカプであった。
このトプカプの辺り(トプカプ宮殿ではない)は、エディルネカブやイェデレクと共に城壁がよく残っている所である。
トプカプのこの城壁は413年に築かれた「テオドシウスの城壁」でイスタンプール旧市街をすっぽり覆うように造られた城壁である。ローマ・ビザンツ時代には鉄壁の防御を誇り、1453年トルコのメフメット2世がこの街を陥落させた時も、この城壁を如何に突破するかが鍵になっていた。そこで、*ウルバンの大砲により「聖ロマノス門」付近中心に砲撃し、攻城戦もここを中心に行われたが結局、この城壁は完全には崩しきれなかった。
ところが、その最中、聖ロマネス門の北の方にある「ケルコポルタ門」の通用口が施錠されないまま守備隊が居なくなってしまい、ここからオスマン軍が侵入、コンスタンティノープルは陥落した。
現在では、ここトプカプにあった「ロマノスの門」周辺の城壁はミレット通りにより分断されているが、通りの両側には大理石の塔が聳え、そこからどこまでも続く城壁の壮大な姿は実に見応えがあり、いつまで見ていても飽きなかった。
また、塔の横に階段があったが、門扉によって塞がれ残念ながら城壁の上には上れなかった。
内壁、外壁、防御用の低壁と堀から成っている。内壁は、高さ13m、厚さ3~4mで、15~20mの高さの見張りの塔が96箇所に設置されていたそうである。また、外壁は、高さ8m、厚さ約2mで、15~20mの塔が96箇所に設置されていたそうである。
また、トプカプ宮殿にも一部(陸側とマルマラ海沿い)城壁が残っていた。
(2008/03/13、20訪れて)
*ウルバンの大砲
ウルバンの大砲は、オスマン帝国が1453年のコンスタンティノーブル攻略戦で使用した大砲。名前は開発者であるハンガリー人(マジャール人)・ウルバンにちなむ。ウルバンは当初東ローマ帝国側に大砲を売り込んだが、拒絶された(しかも牢獄に送られた)ためにオスマン帝国に与したと言われている。
ウルバンの大砲は、コンスタンティノープルの防御の要であるテオドシウスの城壁を撃ち破るために戦いに投入された。
発射される砲丸の重さは500kg以上になり、射程・威力共に当時の火砲を上回るものだった。しかし、その大きさゆえに故障の多発・次弾装填に時間が掛かるなどの欠点があり、随時修復される強固な城壁を打ち破るには決定力が足らなかったとされる。また、命中率も長大な城壁のどこかに当たるのがやっとというほどであった。このため、その破壊力をもってしても城壁を完全には破壊できなかった。
しかし多くの欠点がありながらも、その破壊力によってコンスタンティノープル攻略に多大な貢献をしたことは事実であり、後世にその名を残すことになった。
ちなみに、この後もオスマン帝国は同等の大型大砲を多数鋳造し、ヨーロッパ各国に恐怖を覚えさせ、後に築城の「城」から「要塞」への変化・銃火器を使う部隊編成などの戦術転換をヨーロッパにもたらした。
(ウィキペディア参照)
今回の南イタリア&マルタ旅行の帰路はイスタンブール経由でしたが、人道サミットのためイスタンブール(アタテュルク)航空へ着陸が遅れてしまい、乗り継ぎができず、幸か不幸か、急遽イスタンブールに泊まることになりました。
そのため、一日イスタンブール観光をすることとなり、団体で小型バスをチャーターしました。訪れた先は、ブルーモスク等々、2008年に訪れた所ばかりでしたがが、今回はミレット通りのトプカプのかなり北側の城壁脇の喫茶店でチャイを飲んだ後、城壁へ登ることができました。
城壁は8年前に訪れた時よりも整備が行き届いているようでした。
城壁は2段からなりますが、1段目へはごく普通の石段が設けられていますが、2段目へは傾斜80度はあろうかというほとんど壁のような石段をスパイダーマンのように張り付いて登って行きましたw(*゚o゚*)w。
城壁最上段から見渡す景色は素晴らしく、外に広がる数十万人のオスマン帝国軍を眺めたビザンツ人の気持ちはどんなだっただろうと想像してしまいました。
ところで、このイスタンブール訪問日の2~3週間後ほどにテロ事件があり、さらにはクーデター(失敗)がありました。そして、今尚、テロ事件が連続しているようです。
イスタンブールは何度でも訪れたい街ですが、これらのことを考えると、今度はいつ行けるか分かりません。今思えば、偶然にも訪れることができて本当にラッキーだったような。
(2016/05/23訪れて)
ギャラリー
【2008年3月訪問時】
【ミレット通りで分断された城壁】
城壁はミレット通りにより南北(左側が北、右側が南)に分断されている。その通りの両側には大理石の塔が聳えている。
ミレット通りで分断された城壁の北方面
トルコの国旗がはためいているのがかっこいい。ここに限らず、トルコでは、多くの場所に国旗が飾られているのが羨ましいような。国歌斉唱や国旗掲揚でもめたりしている日本とはかなり違うようだ。
ミレット通りで分断された城壁の南方面
【北方面の城壁】
北側の塔を城内側から
塔の横に階段があったが、門扉によって塞がれ残念ながら城壁の上には上れなかった。
塔への階段
【南方面の城壁】
南側の塔の城内側
この南側の城内側や城壁上はあまり整備がされておらず、荒れていて、多くのホームレスらしい人がウロウロしていて、中に入って行くのはちょっとためらった。
城壁西面
このどこまでも続く城壁の壮大な姿は実に見応えがあり、いつまで見ていても飽きなかった。
【トプカプ宮殿下のマルマラ海沿いの城壁】
海沿いの城壁はほとんど残っていないが、トプカプ宮殿下のマルマラ海沿いに一部が残っていた。
【ベリーダンス】
トルコと言えば、ベリーダンスも有名だ。ベリーダンスの歴史は古く、中近東各地で娯楽として親しまれたが、イスラムの浸透と共に、女性の露出度の多いダンスは敬遠されていき、比較的戒律の厳しくないトルコが中心的存在になっているそうだ。あまりにも動きが激しいのと、背後のライトで撮影が難しかった。
【2016/05/23訪問時】
今回の南イタリア&マルタ旅行の帰路はイスタンブール経由でしたが、人道サミットのためイスタンブール(アタテュルク)航空へ着陸が遅れてしまい、乗り継ぎができず、幸か不幸か、急遽イスタンブールに泊まることになりました。ミレット通りのトプカプのかなり北側の城壁脇の喫茶店でチャイを飲んだ後、城壁へ登ることができました。
整備が行き届いたテオドシウスの城壁
テオドシウスの城壁は8年前に訪れた時よりも整備が行き届いているようでした。
城壁脇の喫茶店
今回は、城壁脇の喫茶店でトルコ人が大好きなチャイを飲むことができました。
喫茶店では水煙草を楽しむ人も見掛けます。
城壁上へ・・・
城壁は2段からなり、一段目へはごく普通の石段を登って行くことが出来ます。
2段目への石段
2段目へは石段がなく、往時はハシゴでも供えられていたのかと思って、登るのを諦めて戻ろうかと思っていたら、数人の若者がやって来て、スパイダーマンのように壁に張り付いて登って行くのを見掛けましたw(*゚o゚*)w。そこでよく見ると、壁の中央部が石段になっているのが分かりました。とはいえ、石段の幅は10cmあるかないかといったところで、石段の傾斜は、90度はないにしても80度はありそうです。
リュックをしょっているし、諦めようかと思っていたら、一緒のツアーで知り合ったH間さんがやってきてリョックを預かってくれるというので登ってみましたが、登り始めると、今更ながら、その急な傾斜に驚きました。
さらに、よく考えたら、テオドシウスの城壁って、5世紀初頭に築かれたものだということを思い出してしまいました。ということは、1600年ほど経つわけですよね。いつ崩れても不思議じゃないと考えると、余計に恐怖感が・・・(苦笑)。
当写真はH間さんに撮ってもらったものですが、かなりのへっぴり腰ですネ(苦笑)。
城壁上からの眺望
城壁の上から見下ろす景色は格別で、「この城壁が鉄壁の防御を誇り、1453年トルコのメフメット2世がこの街を陥落させた時も、結局この城壁は完全には崩しきれず、ビザンツ側の門の鍵の閉め忘れによって、やっと街に入ることができた。」というのもよく分かります。
また、当時、外に広がる数十万人のオスマン帝国軍を眺めたビザンツ人の気持ちはどんなだっただろうと想像してしまいました。
城壁上から塔を望む
さらに塔へと・・・。今度は普通の石段を登って行けるようで、是非、登って行きたかったのですが、城壁の下で家内が、「もう出発時間だよ~」と・・・・(/。ヽ)。同じツアーの皆さんが待っているようなので諦めざるを得ませんでした(;>_<;)。