八達嶺長城(北四楼から北五楼・北六楼・北七楼・北八楼を)
中国歴代王朝が北方異民族侵入を防ぐ為に築いた人類史上最大の建造物
歴史等
春秋時代(BC771~BC403)に北方の「斉」は隣接する「魯」との国境に城壁を建造した。更に、続く戦国時代(BC403~BC221)には、「燕」「趙」「秦」が、当時勢力を拡大しつつあった北方異民族・匈奴の侵入に備えて、それぞれの領土の北側に長大な城壁を建造していった。これらが、後の長城の原型になった。
そして、紀元前201年、中国を統一した秦の始皇帝は、30万の工兵と農奴数百万人を駆り立てて、従来の数々の長城を連結するとともに、西方にも延長し、長城と呼ばれる最初の大事業を展開した。
そして、次の漢代に長城は西の玉門関まで拡張された。
以後も、各王朝は長城の修復や増築を繰り返した。この営みが長城を次第に進化させていった。
15世紀、北京に遷都した明の永楽帝は、外長城、内長城、北京周辺などを大規模に増改築した。現在見られる堅固な城壁が完成したのじゃこの時代だと言われている。
初期の長城は、土をつき固めた比較的簡単な土塁であったため、風化され朽ち果てているものも多い。一方、明代の後期になって改めて築かれた長城は、大ぶりな煉瓦で表層を覆い、修復を繰り返したため最も堅固な部分が断続的に現存している。
『「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」、「るるぶ方情報版中国(JTBパブリッシング刊)」、「中国ハイライト(阪急交通社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
「万里の長城」は宇宙から肉眼で見える唯一の建造物と言われてきた。尤も、中国の研究者による最近の実証研究で、肉眼では宇宙から万里の長城を見ることはできないことが確認されたということだが・・・。
それでも、以前から、一度は行って見たいと思っていたので、今回の中国旅行の中で一番楽しみにしていた。
今回のツアーは「八達嶺長城」だけだが、八達嶺長城は、明代の1506年に築かれたもので、標高1,015mの八達嶺にある全長7.8kmの長城で、頑丈な煉瓦で造られた城壁は、全長城の中でも最も美しいと言われているそうだ。
朝、目が覚めて外を見ると、あいにくの朝靄が・・・。「昼頃までにあがってくれると良いのだが・・・。」「ただ、この靄、日本の靄と少し違うような?」「北京の空気は極めて悪いと聞くが、まさかスモッグでは?」「北京から80kmも離れているから大丈夫かも・・・?」などといろいろ心配しながらホテルを出発した。
到着しても、残念ながら相変わらずの靄。中国人ガイドの郁さんに天候のことを尋ねると、「一年のうち、300日はこんな天気です」とのこと。それでも霞んだ山の嶺に壮大な城壁が見えると、「遂に来たか!」と感慨にふけった。
八達嶺長城は、入口から南北に分かれており、南は傾斜が急な男坂、北は傾斜が比較的緩やかな女坂と呼ばれている。見学時間は45分と非常にタイトで、ガイドさんはツアー客に北を登ることを薦めていたが、私は半分走りながら登り、何とか両方とも登ることができた。しかし、残念ながら靄は最後まで全く消えることはなかった。
それでも、尾根の上を緩いカーブを描きながら何処までも続く城壁の姿には魅了された。これで、澄み渡った天候だったら何と素晴らしいだろうと思うと、やっぱり残念(泣)!。
(2009/09/15登城して)
【疑問】
万里の長城の名前の由来は、中国の距離の単位として使われる1里が約0.5km、それが5,000kmを超える長城だから「万里の長城」となったという。そして、従来は、最東端の「山海関」から最西端「嘉峪関」までの6,352kmとなっていた。
しかし、いろいろ調べてみると、最西端と言われる「嘉峪関」よりも西の「玉門関」、更に西の「楼蘭」に至るまで長城はあるようだ。
また最近(2009/4/18)、中国国家文物局の発表によると、「最東端の遼寧省虎山から今まで東端とされていた河北省山海関に至り、最西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.88kmに上る」とのことである。
最東端が山海関でなく虎山と改められたことや、従来の説よりも距離が延びたのは理解できるが、ここでも最西端を嘉峪関としているのは何故だろう?嘉峪関よりも西の長城は、万里の長城に含まれないということなのだろうか?誰か、知っている方がいらしたら教えて下さい。
ギャラリー
【八達嶺(はったつれい)長城】
今回のツアーは、八達嶺長城のみ。八達嶺長城は明代の1506年に築かれたもので、標高1,015mの八達嶺にある全長7.8kmの長城で、頑丈な煉瓦で造られた城壁は、全長城の中でも最も美しいと言われており、しかも北京の北東約80kmで交通の便も良いことから最もポピュラーな長城である。
「不到長城非好漢」
駐車場から登り口(居庸外鎮長城入口)まで歩いて行くと、左手に毛沢東が苦難の長征途上に六盤山の長城で詠んだという「不到長城非好漢(長城に到らずんば好漢にあらず)」のレリーフが。
ただ、若者二人が記念写真をとっていて、散々待ったが、いつまで経っても・・・・・ヽ(`⌒´)ノ。
鑰鎖門址
さらに歩いて行くと、鑰鎖門址へ出る。ここまで来ると、左手上に城壁が見えてくる。
居庸外鎮長城入口から長城を仰ぎ見る
鑰鎖門をくぐり抜けると、居庸外鎮長城入口へ出、いよいよ登城だ(*^_^*)。ここからは南北に分かれており、南は傾斜が急な男坂、北は傾斜が比較的緩やかな女坂と呼ばれている。相変わらず靄っており、北側(写真の方面)はまだしも、南側はかなりの靄だ。山腹に「同一个世界 同一个梦想 (One World One Dream)」と書かれた大きな看板が見える。
北一楼・北二楼・北三楼・北四楼・・・
入口から石段を登ると、南北に城壁が見える。この写真は南城壁へ少し登った所から撮ったもの。手前が石段を登った所で、すぐ向こうに北一楼、そこから右へ北二楼、北三楼、北四楼へと続く。靄で霞んでしまっているが、中央やや右上奥が北八楼、そのやや左手前が北七楼。それにしても靄が・・・!
北二楼へ
北三楼へ
北四楼
北四楼が近くになるとかなり急勾配になり石段(117段)になっている。
北四楼から北五楼・六楼・七楼・八楼を
左頂部が七楼、そのやや右下が六楼、その右に五楼で最も奥の山頂部に八楼が見える。
北四楼から東方の城壁を望む
北四楼から東方を眺めると、そこにも城壁が延々と続いているのが見える。それにしても、もう少し澄み渡っていたら見事な眺望なのだろうがねえ!残念!
南一楼へと
一旦、登り口へ戻り、次は南へと向かった。こちらは、人出がかなり少ない。
南二楼へ
南三楼へと
南三楼にて
地元の人だろうか、南三楼に皇帝と皇后のような姿をした人形を持って来ている人があり、外国人観光客が興味深そうに見ていた。
南三楼から北方を眺める
南三楼から北方を眺めたが、深い靄で霞んでしまいよく見えない。天候がよかったら峰々に連なる城壁の光景が見事なことだろう(残念!)。
南四楼へ
この辺りから、かなり急勾配になってくる。靄が益々ひどくなってきたので、南四楼を前にして登るのを止めた。
南五楼を仰ぎ見る
南四楼の50mほど手前から南五楼(中央上)を見上げたが、靄がすごくはっきりと見えない。右に見えるのは、別の見張台のようなものらしい。
【居庸関(きょようかん)長城】
北京市街から八達嶺長城へ向かう途中に、バスの窓から居庸関長城が見える。こちらも、かなりの観光客が来るようだ。八達嶺長城以上に、急傾斜の尾根に城壁が築かれているのが見えた。次回は、こちらへも登城したいものだ。