千代ヶ岡陣屋(函館市)

陣屋跡の千代台公園の西を通る陣屋通り沿いに立つ説明板

仙台藩、続いて津軽藩が置いた元陣屋で、旧幕府脱走軍が立て籠もった

別名

津軽陣屋

所在地

北海道函館市千代台町
【アクセス】
中島小学校から千代台公園一帯が陣屋跡で、千代台公園の西、教育大通り(陣屋通り)沿いに説明板が立っている。
中島小学校(函館市中島町30−5、電話0138-52-1437

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 千代台公園、中島小学校等
【遺構等】 説明板

満足度

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訪城日

2012/08/01

歴史等

文化5年(1808)、幕府から蝦夷地の警備を命じられた仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約130m、南北約150mの土塁を築き、陣屋を置いたのが最初である。
安政2年(1855)には、幕府が津軽藩に対して西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名から千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた。
明治元年(1868)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が五稜郭を本拠に、弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

千代ヶ岡陣屋は、現在は、千代台公園となり陸上競技場や野球場が建っていて、遺構は勿論、往時の面影さえ全くない。公園の西側を通る「教育大通」の別名が「陣屋通り」として名前が残っているのがせめてもの慰め?
(2012/08/01訪れて)

ギャラリー

陣屋通り
千代ヶ岡陣屋は、千代台公園となり、遺構は勿論、面影さえないが、公園の西側を通る「教育大通」の別名が「陣屋通り」として名前が残っているのがせめてもの慰め?
陣屋通り

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