河野館(函館市)

旧函館市立病院跡の観光バス駐車場前に立つ説明板

道南12館の一つ、箱館(函館)の名称発祥の館

別名

箱館、宇須岸河野館(うすけしこうのだて)、宇須岸館

所在地

北海道函館市元町、弥生町

形状

現状・遺構等

現状:観光バス駐車場他
遺構等:説明板

満足度

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訪城日

2007/09/10

歴史等

鎌倉時代から室町時代中期にかけて、道南地方には和人の館が12あり、河野館もそのうちの1つであった(*道南12館)。
亨徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来した。政通は、四国伊予の豪族河野氏と関連があるといわれている。
政通は、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは市立函館病院から元町公園に至る東西約92m、南北約115m、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれている。この「河野館」を遠くから見ると箱に似ていたところから、「箱館」と呼ばれるようになり、地名発祥の基となった(明治2年「函館」と改称された)。
永正9年(1512)アイヌの反乱(*コシャマインの乱)で河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため和人は亀田に移り、箱館は以後100余年にわたって衰退した。
箱館は宝永年間(1704~1711)になって、住民の増加に伴い相次いで寺院が建ち、また、寛保元年(1741)には松前藩の亀田奉行所が「河野館」跡地に移されるなど、再び栄えて来た。
寛政11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、亨和2年(1802)この跡地に箱館奉行所を設置した。この頃から高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行所庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。

【道南12館】
道南12館とは鎌倉時代から室町時代中期にかけて道南地方南部(渡島半島南部)に築城された諸館の総称である。道南地方に12館しか築城されなかったというわけではなく、実際はもっと多くの館があったと思われるが、学術的に存在が確認されているのが志苔館・宇須岸河野館(箱館)・茂別館・中野館・脇本館・穏内館・覃部館・大館・禰保田館・原口館・比石館・花沢館の12館であることから、そのように呼称している。

【コシャマインの乱】
康生2年(1456)志苔のアイヌ人殺傷事件をきっかけにコシャマインに率いられたアイヌ人が和人の館を攻撃し、次々と館は攻め落とされ、 茂別館と蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の花沢館が残るのみとなった。この時武田信広は和人を率いてコシャマイン親子を討ち取った。

『「現地説明板」、「「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」他より』

現況・登城記・感想等

ここは函館でも人気の観光スポット「元町」である。以前、何度か来たが、当時はまだここに「*函館市立病院」があったが、今は観光バスの駐車場となり、その隅の道路に面した所に文字が薄くなってしまった説明板が建つのみである。
函館の超一級地でもあり、埋もれた史跡を発掘して残すのは無理にしても、発掘調査くらい欲しいところであるが、その予定はないらしい。
(2007/09/10登城して)

【函館市立病院】
万延元年(1860)箱館奉行所直轄の箱館医学所兼病院として山ノ上町(現弥生町8番地)で開設され、明治8年(1905)11月にこの場所(弥生町2番3号)に新築され、以来平成12年(2000)3月まで営々と続いた。

ギャラリー

鳥瞰図(現地説明板より)

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