館土塁とその下に立つ石碑と説明板
道南12館の一つ、アイヌの蜂起「コシャマインの乱」により落城
別名
志濃里館
所在地
北海道函館市志苔館町
形状
館
現状・遺構等
現状:城址公園(国指定史跡)
遺構等:曲輪、空堀、土塁、二重空堀の虎口、建物・門、柵・塀・井戸の跡、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和9年8月9日、追加指定:昭和52年4月27日
指定理由:北海道南西部に築かれた中世和人豪族の館跡で、和人渡来と定着の様子を知るうえで貴重な遺跡。
面積:2万㎡
満足度
★★★☆☆
訪城日
1999/05/01
2004/08/02
歴史等
上野国の小林重弘が南北朝時代に津軽から渡ってきて築いたといわれている。
室町時代頃、道南地方には和人の館が12あり、そのうちの1つであった(*道南12館)。小林太郎左衛門良景が居住していた。
康正2年(1456)アイヌ人が蜂起し、翌長禄元年(1457)志苔館は攻め落とされた(**コシャマインの乱)。
その後も小林氏が居住したが永正9年(1512)再びアイヌ人が蜂起し志苔館は落城し、館主・小林良定は討ち死にした。その後、小林氏は松前氏に従属したため志苔館は廃城となった。
昭和43年の道路工事時に37万4千余枚の渡来銭が発見され話題になった。
『北海道の歴史がわかる本・桑原真人、川上淳著(亜璃西社刊)他参照』
*道南12館
道南12館とは鎌倉時代から室町時代中期にかけて道南地方南部(渡島半島南部)に築城された諸館の総称である。道南地方に12館しか築城されなかったというわけではなく、実際はもっと多くの館があったと思われるが、学術的に存在が確認されているのが志苔館・宇須岸河野館(箱館)・茂別館・中野館・脇本館・穏内館(おんないたて)・覃部館(およべたて)・大館・禰保田館(ねぼたたて)・原口館・比石館・花沢館の12館であることから、そのように呼称している。
**コシャマインの乱
志濃里(志海苔、志苔)の鍛冶屋村には数百軒の家があり、康生2年(1456)の春に、オツカイというあいぬの少年が鍛冶屋に来てマキリ(小刀)を作らせたところ、出来の良し悪し、もしくは値段について意見が合わず、鍛冶屋はマキリでこの少年を突き殺した。
これをきっかけに道南のアイヌが一斉に蜂起した。長禄元年(1457)、東部のアイヌの酋長コシャマインに率いられたアイヌ勢が、まず志苔館と宇須岸館を攻撃し、続いて中野館、脇本館、穏内館(おんないたて)、覃部館(およべたて)、大館、祢保田館(ねぼたたて)、原口館、比石館の計10館を攻略し、道南12館のうち残ったのは下国氏の茂別館と花沢館だけとなった。
しかし、蠣崎氏の客将であった武田信広の謀略により、その後、コシャマイン父子は殺され、その他のアイヌも多数殺害されたことで敗北を喫した。
現況・登城記・感想等
南北朝時代に既に和人が蝦夷に渡っていたという事実と、かなりの大規模な遺構に驚いた。
空堀と土塁がよく残っており、整備もよくされている。また、津軽海峡が目の前に広がり、その眺望もなかなかのものである。残念ながら、訪城の2回とも天気は良かったが、ちょっと靄がかかっていたため下北半島が見えなかったのは残念だ。
(1999/05/01、 2004/08/02の2度の訪城後に)
ギャラリー
志苔館案内図 (現地案内板より)
石碑と説明板
登城口に石碑と案内図付きの保存についての解説板が設置されている。
和人・阿伊努双方の御霊を祀った慰霊碑
登城口すぐ傍に、和人・阿伊努双方の御霊を祀った慰霊碑が建てられてる。慰霊碑入口は、何故か門で閉ざされ、手前に説明板が設置されている。門の隙間から慰霊碑を撮影。
説明板には、「由緒 下北半島 津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達 道南に館を築きてありしが、康生2年(1456)志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり 翌長禄元年 館は攻め落され その後再び永正9年(1512)戦いあり 館は陥落し廃館となった。 ここに コシャマインの戦いにおいて亡くなりし館主和人御霊 阿伊努御霊 双方を同一座にお祭りしたものであります。 祭神 小林良景命・小林良定命他 和人殉難御霊 阿伊努帳魂御霊 例大祭・7月22日 昭和45年9月落成 石崎地主海神社社務所」と書かれている。
西端の土塁へ
曲輪虎口西側の二重堀切と木橋
曲輪の西側は二重堀切で断ち切られ、外側の堀切には木橋が架かり、内側の堀切は土橋で繋がれている。
木橋両側の堀切①
堀切の向こうは函館空港の滑走路。
木橋両側の堀切②
堀切の奥は津軽海峡で、本来なら、その向こうには下北半島が見えるはずだが、残念ながら、靄で薄っすらとしか・・・。
曲輪内(北部分)
曲輪内は、かなり広く、周囲を土塁が囲んでいる。そして主に、14世紀から15世紀に存在していたと考えられる建物・門・柵・塀・井戸などの遺構が発見されている。
曲輪内(南部分)
建物跡
建物跡は、7棟分が発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大きく3つの時代に分類できる。奥の石碑は、館主小林氏の頌徳碑。
井戸跡
発掘調査により地表下約4mのところから木製の井戸枠が発見された。曲輪内に存在した唯一の井戸である。この木製井戸枠は4隅に置いた柱を桟でつなぎ、柱と柱の間に縦板を並べた「方形隅柱横桟式」と呼ばれるものである。この井戸は形式的に見て、おおよそ室町時代頃に造られたものと考えられる。井戸の中からは、箸・曲物・桶の一部・銅銭等が発見されている。ここには、発見された井戸枠と同じ構造のものを地表に復元して表示している。