山腹の広い郭(屋敷跡)
道南12館の一つ、コシャマインの乱でも茂別館と共に落城しなかった蠣崎氏の館
所在地
北海道桧山郡上ノ国町勝山
【アクセス】
JR「上ノ国駅」の南西約1km。上ノ国駅から国道228号で南西へ800m程進むと天の川に架かる橋へ出る。橋を渡り終わって60~70m程行った左手に小公園があり、その先に花沢館の石碑(見落としやすいので要注意)が立っている。石碑の脇の道が登城道。駐車場はないが、石碑の横に何とかスペースがあったので、そこに停めた。
駐車場所から主郭までの所要時間
山腹の広い郭まで3~4分、さらに2~3分で山頂部の主郭へ出る。
形状
山城(標高50m、比高40m)
現状・遺構等
【現状】 山林(国指定史跡)
【遺構等】 郭、土塁、堀切、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2012/07/31
歴史等
源頼朝は、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼすと、津軽に東北北部や北海道の「蝦夷」を支配する「蝦夷管領」を設置し、俘囚安倍氏の系譜を引く安藤氏を配した。
安藤氏は、十三湊を拠点に北方との交易を行なうが、15世紀半ばに南部氏との争いに敗れ、道南へ逃れた。その後も、本州最北部では豪族間の争いが続き、享徳3年(1454)には、下北半島田名部の安東(藤)政季が、内紛で若狭武田氏を出奔した武田信広らを伴い渡島半島に渡った。
こうした状況を反映して、当時の渡島半島には、和人、和人系渡党、アイヌ系渡党、アイヌなど多様な人々が住んでおり、その中から交易などで富を得た小豪族らが館(たて)を築いていった。
花沢館もそうした館の一つであり、道南には東の志苔館から西の花沢館まで12の館が築かれた(*道南12館)。
そうした状況下、安東政季は、渡島半島を下之国(上磯町~函館市付近)、松前(松前町を中心とした地域)、上之国(上ノ国町を中心とした地域)の3つに分割し、それぞれに自らの親族を守護と副守護として配し、「安東氏―守護―館主」という指揮系統のもと、政治的に編成していった。下之国守護は茂別館、松前守護は大館、下之国守護は花沢館にいて、それぞれの地域を治めていた。
長禄元年(1457)の「*コシャマインの戦い」の際には、道南12館のうち10館が攻略され、道南12館のうち残ったのは下国氏の茂別館と花沢館だけとなった。
花沢館は、館主・蠣崎季繁や客将・武田信広が固く守り、さらに信広の謀略により、コシャマイン父子を射殺し、その他のアイヌも多数殺害して敗北に追いやったという。
『「北海道の歴史がわかる本・桑原真人、川上淳著(亜璃西社刊)」、「現地説明板」他参照』
*道南12館
道南12館とは鎌倉時代から室町時代中期にかけて道南地方南部(渡島半島南部)に築城された諸館の総称である。道南地方に12館しか築城されなかったというわけではなく、実際はもっと多くの館があったと思われるが、学術的に存在が確認されているのが志苔館・宇須岸河野館(箱館)・茂別館・中野館・脇本館・穏内館(おんないたて)・覃部館(およべたて)・大館・禰保田館(ねぼたたて)・原口館・比石館・花沢館の12館であることから、そのように呼称している。
*コシャマインの戦い
志濃里(志海苔、志苔)の鍛冶屋村には数百軒の家があり、康生2年(1456)の春に、オツカイというあいぬの少年が鍛冶屋に来てマキリ(小刀)を作らせたところ、出来の良し悪し、もしくは値段について意見が合わず、鍛冶屋はマキリでこの少年を突き殺した。
これをきっかけに道南のアイヌが一斉に蜂起した。長禄元年(1457)、東部のアイヌの酋長コシャマインに率いられたアイヌ勢が、まず志苔館と宇須岸館を攻撃し、続いて中野館、脇本館、穏内館(おんないたて)、覃部館(およべたて)、大館、祢保田館(ねぼたたて)、原口館、比石館の計10館を攻略し、道南12館のうち残ったのは下国氏の茂別館と花沢館だけとなった。
しかし、蠣崎氏の客将であった武田信広の謀略により、その後、コシャマイン父子は殺され、その他のアイヌも多数殺害されたことで敗北を喫した。
『北海道の歴史がわかる本・桑原真人、川上淳著(亜璃西社刊)他参照』
現況・登城記・感想等
花沢館は、上ノ国町の北西部にあり、日本海へ流れる天の川左岸に突き出た丘陵先端に築かれた山城です。
南北に細長く延びた丘陵の南側を堀切で断ち切り、その北側に広い主郭を構え、南へと塁段に郭を設けた縄張のようです。
登城口は、国道228号線沿いの小さな公園脇にありますが、駐車場が見付かりませんでした。止むを得ず、車を道端の僅かなスペースに寄せて、妻に車の中で待っていてもらい一人で登城することにしました。
登城道は、普段は整備されているようですが、真夏のことでもあり登城口から見える道は完全な藪状態です。
しかも、ここで、一つ大事なことに気が付きました。それは、山城に登る時には、いつも持参している熊除けの鈴とスプレーを持ってくるのを忘れたことですw(*゚o゚*)w。ここは北海道です。ヒグマが出ないとも限りません。しかも、どうみても花沢館へ登る人はあまりいそうにありません。少なくとも、今日はいないようです( ̄ー ̄;。
とはいえ、折角、北海道の、しかもかなりの僻地(失礼)まで来たのです。次は、いつ来れるかも分かりません。というわけで、ここは意を決して登城することにしました。
さて、花沢館は、主郭をはじめ塁段に設けられた腰曲輪等々が比較的良好に残っていましたが、これといった見どころは少ないです。
尤も、熊が気になって、主郭まで周りを見ながら、道なりに登ってから、すぐに下山したので堀切をはじめ見落としもあったようですが(;´▽`A``。まあ、しょうがないですね(/。ヽ)。
(2012/07/31登城して)
ギャラリー
登城口
天の川の架かる橋の南詰から60~70mほど西の国道228号線沿い南側に小公園があり、その西に「史跡上之国館跡のうち花沢館跡」と刻まれた石碑が立っている。その脇(写真右側)が登城口であるが見落としやすいので要注意。真夏の登城のせいもあり、登城口は薮のため道とは思えないような。
段曲輪
登城口からしばらく登って行くと、右手に薮になっているが、狭い塁段になった削平地が確認される。段郭跡であろう。そして、登り始めて3~4分ほどで、山腹にある広い郭跡が正面に見えてくる。
山腹の郭(屋敷跡)
山腹にある、この郭は、花沢館の中では主郭以外では最も広く、居館が建っていたと想定される。
段郭
この写真は、主郭北側の段郭を主郭直ぐ下から見たところである。それぞれの郭の比高差は3~4mの切岸になっている。
主郭下の腰郭
主郭すぐ下の腰郭は帯曲輪のように周囲をめぐっているような。
主郭
主郭は、東西15~20m、南北約60mほどの細長い郭で、両側が急崖になっているようだ。ただ、とにかく藪がひどくて・・・(/。ヽ)。
主郭の南端部の堀切を見ようと、南の方へ向かったが、藪があまりにもひどいのと、想像していたよりも、山は奥が深そうで熊が出て来るのではと怖くなって、堀切を見ずに途中で戻って来てしまいました(/。ヽ)。