茂別館の大館東側の空堀
道南12館の一つ、コシャマインの乱時にも花沢館と共に落城しなかった館
読み方
もべつだて
所在地
北海道北斗市矢不来131-1他
形状
山城
現状・遺構等
【現状】山林、矢不来天満宮
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/09/10
歴史等
鎌倉時代から室町時代中期にかけて、道南地方には和人の館が12あり、茂別館(もべつだて)も、そのうちの1つであった(*道南12館)。
嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。
大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。
また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。
康正2年(1456)のアイヌ人の蜂起(*コシャマインの乱)があった時も、花沢館とこの茂別館の2つだけが最後まで落城しなかった。
【道南12館】
道南12館とは鎌倉時代から室町時代中期にかけて道南地方南部(渡島半島南部)に築城された諸館の総称である。道南地方に12館しか築城されなかったというわけではなく、実際はもっと多くの館があったと思われるが、学術的に存在が確認されているのが志苔館・ 宇須岸河野館(箱館)・茂別館・中野館・脇本館・穏内館・覃部館・大館・禰保田館・原口館・比石館・花沢館の12館であることから、そのように呼称している。
【コシャマインの乱】
康生2年(1456)志苔のアイヌ人殺傷事件をきっかけにコシャマインに率いられたアイヌ人が和人の館を攻撃し、次々と館は攻め落とされ、茂別館と蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の花沢館が残るのみとなった。この時武田信広は和人を率いてコシャマイン親子を討ち取った。
『「現地説明板」、「「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
茂別館跡は、南の大館、北の小館から成り、自然の沢で区画されている。大館、小館とも北、東、南の三方に土塁を巡らしており、館内部には仕切状の土塁が認められる。尤も、今回、大館しか廻らなかったけど・・・。
大館跡には、現在、矢不来天満宮が建ち、車で裏参道から虎口(往時のものではなく、神社を建てるにあたって、土塁を削ったものであろうか?)を通り境内に入れる。虎口の両側の土塁が残り、右側には空堀が残っている。
茂辺地川手前(西側)から仰ぎ見ると、右側(南側)の大館と左側(北側)の小館の間が崖で分かれているのが分かるが、うっかりして大館だけの写真を撮ってしまった(;>_<;)。
そして、急崖で護られた天然の要害地であることもよく分かる。「なるほど、コシャマインの乱でも最後まで落城しなかったわけだ。」
また、「茂別館の城主安東氏は、室町期に南部氏の津軽侵入によって、十三湊からこの蝦夷地に逃れ、その後、出羽に戻り、後には戦国大名となり、常陸、更には三春城主として明治を迎えたんだよな~。数奇な運命というか、ドラマチックな家系だよな~!」などと思いを巡らしながらの登城であった。
遺構はわずかではあったが、それなりに満足した登城であった。
(2007/09/10登城して)
ギャラリー
茂別館(大館)全景
茂辺地川手前(西側)から仰ぎ見ると、右側(南側)の大館と左側(北側)の小館の間が崖で分かれているのが分かるが、うっかりして大館だけの写真を撮ってしまった。この写真左側に小館がある。
登城口(表参道)
登城口である表参道入口には鳥居脇に石碑と説明板が立っている。
鳥居をくぐり振り返る
鳥居をくぐってから振り返ると、高台になっており茂辺地の町や海がよく見える。
大館の虎口
車で裏参道から虎口(往時のものではなく、神社を建てるにあたって、土塁を削ったものであろうか?)を通り境内に入れる。