中山城天守台石垣
最上領との北の最前線の城、山頂本丸に石垣造りの天守台(物見台)が
所在地
山形県上山市中山
【アクセス】
JR羽前中山駅の西を通る旧国道13号線を350mほど北東へ進むとバイパス(国道13号線)と交わります(信号有)。バイパス(国道13号線)を左へ曲がり400mほど南西へ進むと、右(北西)へ曲がる道があるので、そこを曲がります。すると、すぐに突き当たるので、そこを左へ曲がり、道なりに登って80mほど登ると、右へ曲がる道があるので、そこを道なりに100mほど登って行くと駐車場があります。そこが登城口で説明板が立っています。
所要時間
駐車場から本曲輪まで10分弱、今回の見学総時間は28分。
形状
山城(標高344m、比高90m、駐車場からの比高約60m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、櫓台(天守台)、石垣、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2015/10/25
歴史等
中山城は伊達・上杉時代を通して最上領との北の最前線にあった。
永禄・元亀(1558-72)頃、伊達氏の家臣中山弥太郎(中山の地名の起原)が伊達領を最上勢から防衛するために築いたといわれる。
天正年間(1573~92)の頃は小国蔵人が中山郷の諸役を任され、北口の守りを伊達政宗から命じられている。
その後、天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津に入封すると、家臣蒲生郷可が城主となった。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に入ると横田旨俊が城代となった。
江戸時代には米沢城の支城を御役屋と称し、中山城では南東麓に御役屋が置かれた。
『「日本城郭大系3」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
中山城は本曲輪を山頂部に構え、その下に二ノ曲輪、三ノ曲輪を塁段に構えた山城です。
登城道の多くが堀底道になっており、それなりに中世山城の雰囲気の趣きがあります。
二ノ曲輪や三ノ曲輪はかなり広く、土塁らしきものも見られますが、あまりにも薮がひどくて入っていけないのが残念です。
本曲輪には東面と北面の2面を石垣で積んだ天守台(物見台)がある。本曲輪跡も、かなりの藪ですが、天守台(物見台)周辺はそれなりに整備されています。
当城跡の見どころは天守台だけかもしれませんね。
(2015/10/25登城して)
ギャラリー
登城口
登城道(堀底道)
登城道の多くが堀底道になっており、それなりに中世山城の雰囲気の趣きがあります。
三ノ曲輪
塁段に設けられた曲輪は、かなりの広さがあり、遠目に土塁なども見えますが、一面の藪はとても突入できるような代物ではありません。
二ノ曲輪
二ノ曲輪も登城道の両側は、強烈な薮で入って行く勇気はありません。正面奥の一段高くなったところが本曲輪です。
二ノ曲輪から本曲輪を
二ノ曲輪から本曲輪(写真奥の一段高いところ)への道端に、如何にも手作りでございという城址碑が立っていて、何とも微笑ましいですね。
本曲輪周囲の空堀
本曲輪の手前には、藪で分かり辛いですが空堀があります。多分、本曲輪の周囲をめぐっているみたいです。
本曲輪への虎口
本曲輪虎口は、二ノ曲輪や三ノ曲輪の虎口と同様、堀底道のようになっており、曲がりくねっています。枡形や喰い違いにはなっていませんが、それなりに工夫されています。
本曲輪虎口の石積み?
虎口の側面をよく見ると、石積みらしき石が散見されますが、果たして・・・?
本曲輪
本曲輪もかなりの藪ですが、道の奥(写真右奥)に櫓台のようなものが見えます。
物見台(天守台)
天守台とも言われているようですが、恐らく物見台でしょうね。西面には階段が設けられています。
物見台(天守台)上
物見台上には「天守山大神」と「杉林記念」の碑が立てられています。
物見台(天守台)上からの眺望
物見台上から眺める山並みの光景は悪くはありませんが、杉林が邪魔して山麓は見えません。
物見台(天守台)北西角の石垣
物見台の北西隅は、かなり大きな石が使用されています。これほどの石垣が築かれているのは、恐らく、蒲生氏時代のものでしょうね。
物見台(天守台)北面の石垣
北面の石垣が最も良好に残っています。
物見台(天守台)東面の石垣
東面の石垣も、なかなか大きな石が使われています。一部、崩れてはいますが、なかなかいいです。まさに、「滅びの美」です(*^_^*)。尚、南面には石垣が見られませんが、元々、なかったのでしょうかね?
本曲輪の土塁
大変な藪で覆われているので、この写真では分かり辛いでしょうが、本曲輪の東側(物見台のすぐ北側)には、高さ1.5mほどの土塁が設けられています。