主郭西の尾根を断ち切る三重堀切
米沢上杉氏方に対する山形最上氏方の最前線の城、直江兼続に攻められ落城
読み方
はたやじょう
所在地
山形県東村山郡山辺町畑谷
【アクセス】
長松寺のすぐ西に「ごへえ宿(案内所・休憩所)」があり、駐車場完備です。駐車場のところから登城します。案内所でパンフレットを頂いてから登城するのをお薦めします。
長松寺:東村山郡山辺町大字畑谷38 、電話023-666-2122
所要時間
駐車場から東部大空堀まで2~3分、東部大空堀から主郭(館山)まで約6分。今回の見学総時間は1時間強。
形状
山城(標高549m、比高70m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、竪堀、石碑、説明板
満足度
★★★★★
歴史等
畑谷城主・江口光清は、天文13年(1544)斯波頼宗の長男として摂津国で生まれ、国時といい、のちに姓を江口と改めた。永禄5年(1562)、18歳のころ最上義光に仕官し、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一字を賜り、光清(あききよ)と名乗った。
光清は最上義光の信頼が厚く、村木沢・長岡楯主から畑谷城主として移り、米沢上杉氏に対する最前線を守ることになった。畑谷城の地は、鮎貝・荒砥地区から山形方面への侵入に便利な地形にあり、上杉勢は畑谷城~長谷堂城~山形城へと進攻する計画であったため、重要な境目の地を任せられたのである。
光清は東黒森山の尾根続きの館山に城を築いて、その任に当たった。
慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦の余波で、上杉氏方の直江兼続は2万の主力軍を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城へ迫った。
直江兼続は光清を高く評価しており、なんとか味方につけたいと考えたが、光清が降伏しないため畑谷城を攻めた。
9月13日、江口道清は手勢を指揮して迎え撃ったが、約4時間の戦いで敗れ自刃し、落城した。直江兼続は、城攻めにあたっては撫で斬り(皆殺し)を命じ、光清以下、500余りの首を討ち取ったという。
『「現地説明板」、「パフレット」、「日本城郭大系3」参照』
現況・登城記・感想等
畑谷城は盆地状の地形をなす畑谷集落の北方に聳える館山の山頂に主郭を置いた山城で、西麓には内城の地名が残る城主などが日常居住した場所があります。
主郭周囲は、急峻な南東部以外には帯曲輪がめぐらされ、その下に空堀が設けられています。その空堀は、西側から南西部にかけては二重堀になっています。
そして、主郭の西約150mほどには尾根を断ち切る大規模な三重空堀(堀切)が設けられています。
また、東側の尖り森との鞍部には方形空間を取り囲む大空堀が築かれています。
さらに、そこからは畑谷地区に延びるこれまた大規模な竪堀、さらには簗沢地区に延びる大空堀が掘られています。
これらの遺構は、全て圧倒されるような迫力があり、感動ものです。
(2015/10/25登城して)
ギャラリー
畑谷城縄張図(パヌレットより) ~画面をクリックにて拡大~
畑谷城は、南部に比高差70mの畑谷地区、北部に比高差170mの簗沢地区の中間に位置します。
東は標高766mの東黒森山から西へと575mの尖り森、東部大空堀が築かれた鞍部を経て主郭のある549mの館山と続いています。
館山の西方はやや高原状の尾根となり、西端は急傾斜して断崖状となり、その下を鵜川が流れています。尾根の平坦な部分は三重堀切で断ち切られています。
畑谷城鳥瞰図推定復元(現地案内板より)
①主郭、②枡形虎口、③二重堀、④末整形空間(駐屯地として使用)、⑤三重空堀、⑥東の尖り森と城のある館山の鞍部に設けられた方形空間。中央を衛道が通る。⑦城下を流れる鵜川を堰き止めて造った冠水地帯
【登城記】
ごへえ宿(案内所・駐車場)
長松寺(城主江口氏の菩提寺)のすぐ西側に「ごへえ宿(案内所)」があり、その前に駐車場があります。案内所で縄張図付きのパンフレットを貰って登城です。
駐車場から竪堀を
駐車場の前にいきなり大規模な竪堀が見えます。深さ5m、幅6~7m、長さ100mはゆうにあるでしょう。竪堀の左側の坂道は、このあと行く「東部空堀に囲まれた方形空間」を突っ切り、簗沢まで続いていますが、まずはその坂道を登って行きます。
首洗い池
竪堀の手前に「首洗い池」がありますが、慶長出羽合戦における畑谷城攻防戦で城方の首級を洗った池でしょう。直江兼続の書状によると「・・・去十三日最上領畑谷城乗崩 撫斬申付、城主江口五兵衛父子共首五百余討捕候・・・」とあり、城内に籠城していた兵士たちのほぼ全員が討ち取られたという凄惨な戦いであったのですが、池の周りが直方体の石で囲まれているのが不似合というか興醒めです。
竪堀上部と主郭(館山)への登城口
竪堀沿いの坂道を登って行くと、左前方に城址碑が立っていますが、その手前を左へ曲がると主郭(館山)への登城道です。尚、道の左側も竪堀跡ですが、右側の竪堀と違い、坂の途中までです。
竪堀を見下ろす
竪堀に沿った坂道を登り切った辺りから見下ろしたものです。坂の下に案内所が見えます。
竪堀上部の角部
竪堀は、坂を登り切った辺りで右へ折れてます。
東部大空堀の南側は二重空堀に
竪堀沿いの道を登り切ったところは、南・東・北の3方が土塁と空堀で囲まれた方形空間になります。方形空間の南側は、先程の畑谷地区から延びてきている竪堀が右へ曲がって「尖り森」へ延びていく竪堀と、方形空間を囲む空堀が重なり二重空堀になっています。
この二つの空堀は、どちらも大規模で見応えがあります。特に、「尖り森」へ延びる空堀(写真右)は、幅6~7m、深さ6~7mほどあり威圧されるような迫力を感じます。
東部大空堀(南側)
方形空間を取り囲む空堀は、外側土塁との高低差は4mほどですが、内側(方形空間側)は6mほどあります。
東部大空堀の東側(尖り森側)
「尖り森」に接する部分には大空堀が掘られ、高く盛り上げられた土塁は「尖り森」からの見通しを妨げます。
東部大空堀の北側
東部大空堀と土塁に囲まれた方形空間
方形空間は杉林になっていますが、木々の間から高い土塁が見えます。
簗沢まで延びる空堀
東部大空堀は、さらに簗沢方面まで延びて行ってます。ここで引き返しましたが、最後は竪堀となって簗沢地区まで落ちて行っているのでしょうか。
大手口への道
東部大空堀に囲まれた方形空間の中央部からは、主郭へ登る登城道があったようです。主郭には、中央部と南端部に山頂への山道があったようですが、この中央部への道は現在途中でなくなってしまっているようです。
主郭(館山)への登城口
東部大空堀周辺を見て廻ったあと、先程の主郭(館山)への登城口へ戻ります。石碑手前を左へ向かいます。
登城道
主郭(館山)へ向かう登城道はよく整備されています。
枡形虎口
城址碑前の登城口から6分ほどで90度曲がった主郭への虎口へ出ます。ちょっとした枡形虎口になっています。
主郭
主郭の削平は、あまり整っていません。山頂部には、「江口光清公碑」と「畑谷合戦400年碑」などが立っています。
搦手口
主郭北端の尾根伝いの山道が搦手です。
帯曲輪
主郭周囲は、急峻な南東部以外には帯曲輪がめぐっています。
主郭周囲の空堀
帯曲輪の下に空堀が設けられています。当写真は、主郭北側の帯曲輪下の空堀です。
二重空堀を見下ろす
主郭西側の帯曲輪下の二重空堀を、帯曲輪から見下ろしたものです。帯曲輪との高低差は5m以上あります。
主郭西側の二重空堀
主郭の西側から南西部にかけては二重堀になっています。
三重堀切が
主郭西側の二重空堀を渡り、高原状の尾根を100mほど西へ向かうと三重堀切が見えて来ます。一番手前側は、かなり埋まってしまっていますが、その向こうには大規模な二重になった土塁が見えます。
三重堀切①
この三重堀切は、西部の鵜川側から急峻な崖をよじ登って攻められた場合に備えて用意されたものです。
三重堀切②
西側2条の堀切は、右奥の土塁上に立っているT橋さんと較べてもらえば分かると思いますが、かなりの規模で、堀底と土塁の高低差は3mほどあります。往時は、もっと深かったのでしょうね。
竪堀となって
尾根の平坦な部分は三重堀ですが、南部の方へ下りて行くと、今もはっきり残る二重堀だけが竪堀となって山裾へ延びていってます。
江口氏菩提寺「長松寺」
畑谷城の南東麓にある長松寺は、江口光清の開基を伝える曹洞宗の寺ですが、それ以前から存在していたようです。
江口光清の墓(左)と畑谷城400回忌記念碑(右)