歴史公園内に残る大手門
庄内藩より分知された松山藩の城
所在地
山形県酒田市字新屋敷、歴史公園(松山文化伝承館付近)
松山文化伝承館:新屋敷36-2、電話0234-62-2632
形状
平城
現状・遺構等
現状:歴史公園他
遺構等:大手門、土塁、水堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/20
歴史等
元和8年(1622)最上氏の改易により、その旧領は諸大名に分与された。庄内14万石には奥羽の外様大名の押さえとして、
信州松代10万石の譜代大名である酒井忠勝が転封された。
その後、忠勝の遺言により、正保4年(1647)、その三男忠恒に中山地方・左沢地方の計2万石、七男忠解に大山1万石が分知された。
忠恒は、寛文2年(1662)に中山陣所を開き、寛文4年(1664)、古来の縁起により中山の地名を松山に改称した。
宗藩は鶴ヶ岡で、
酒田が亀ヶ崎であることから末代までの繁栄を願ったもので、
松山の名称の起源はここに由来している。これが松山藩の始まりである。
3代目藩主忠休は幕府の若年寄を26年間勤め、その永年の要職勤務の功により、安永8年(1779)、
上野桐生に5千石の加増と松山城の築城が認められた。直ちに築城準備に入り、天明元年(1781)に着工、翌2年(1782)
には大手門が完成している。
しかし、天明7年(1787)までの7年間を費やしたが、藩の財政状況や藩主忠休の死もあり、完成しないまま築城を終えた。
二の丸は9分どおり完成したが、本丸は全く着手していなかった。そのため、旧御殿を本丸に移して仮御殿とし、
4代藩主忠崇を迎え入れているが、その後も新たに御殿を築くことはなかった。
戊辰戦争では宗藩にならい、明治元年(1868)9月に開城し、城地没収、城取り壊しとなった。
明治2年(1869)、忠匡は版籍奉還をしたが、この時松山を松嶺と改称し、自ら藩知事となった。
明治4年(1871)の廃藩置県により、松嶺は松嶺県、酒田県、鶴岡県を経て、山形県に編入された。
『松山文化伝承館資料より』
現況・登城記・感想等
松山は、歴史公園付近の土塀の道や大手前広場跡など、町をあげて城下町の風情を醸し出す努力をしているのがよくわかり、
楽しく散策できる。
一番の見所は、勿論、立派な大手門で、山形県内唯一の江戸時代の城郭建築だそうだ。
他にも十三間堀(外堀)や本丸土塁跡等が残っている。
また、町のあちこちに案内板があり、往時の城郭や城下町の姿が偲ばれる。
歴史公園内にある文化伝承館には松山藩に関する展示がされている。館内の方も親切で、いろいろ資料を捜してくれたりして有り難かった。
(2008/05/20登城して)
ギャラリー
縄張略図(文化伝承館資料より)
松山城築城には7年間を費やしたが、藩の財政状況や藩主忠休の死もあり、完成しないまま築城を終えた。
二の丸は9分どおり完成したが、本丸は全く着手していなかった。
松山の町並み① ~歴史公園横の道~
松山は、歴史公園付近の土塀の道や大手前広場跡など、
町をあげて城下町の風情を醸し出す努力をしているのがよくわかり、楽しく散策できる。
松山の町並み② ~大手前広場跡~
大手門(歴史公園内)
この城の一番の見所は何といってもこの立派な大手門であろう。松山城大手門は、天明2年(1782)
に建造されたが落雷のため焼失したが、寛政4年(1792)に酒田の本間光丘、分家重利の寄進により再建されたもので、
山形県内唯一の城郭建築である。
馬出跡土塁(歴史公園内)
歴史公園内には馬出跡の土塁が残っていた。
十三間堀(外堀)
【文化伝承間展示物】
(大手門の鯱)
大手門は、平成4年に再建200年を数え、鯱に損傷が見られ、その保存の為に、
再建時の製作者庄司清吉の子孫佐野屋14代庄司清吉(逸雄)に複製を依頼し、同年4月に取り付け工事を完了した。
(5代藩主忠禮の柿本人麻呂の文字絵)
歴代藩主の寄帳の掛け軸が展示されていた。どれも実に見事な書であったが、中で、
この文字絵は変っていたので紹介する。