羽後 亀ヶ崎城(酒田市)

酒田東高校の北西部に残る土塁

武藤氏が砂越氏に対抗するために築城、その後最上氏と上杉氏の争奪戦が

別名

東禅寺城、酒田城

所在地

山形県酒田市亀ヶ崎1-3(酒田東高校)
酒田東高校:電話0234-22-0456

形状

平城

現状・遺構等

現状:酒田東高校
遺構等:土塁

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/05/20

歴史等

亀ヶ崎城は、文明10年(1478)頃に、大宝寺城の武藤氏が度々離反する砂越氏に対抗するために築いた東禅寺城が始まりという。 城主には一族が配されて東禅寺氏を称した。
東禅寺城は大宝寺城とともに武藤氏の拠点となり、 東禅寺氏が城主として続いた。天正11年(1583)東禅寺義長は山形城の最上義光と結んで、 尾浦城の武藤義氏を襲って自害させ、庄内は最上義光の仕置きとなった。
しかし、天正16年(1588)に上杉配下の本庄繁長が来襲し、十五里ヶ原の戦いで東禅寺筑前守が討死し、東禅寺氏は滅び、 東禅寺城には繁長自ら入った。その後、庄内は上杉領となり甘粕景継や志駄義秀が東禅寺城主として酒田を統治し、城郭も拡張した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の折り、最上義光は山形に侵攻してきた直江兼続を撃退した。そして翌6年(1601) 義光は庄内を攻めて志駄義秀を東禅寺城から追い、庄内は再び義光の手に入った。
慶長8年(1613)に、城近くの浜に大亀が打ち上げられたのを吉兆として、義光は「東禅寺城」を「亀ヶ崎城」と改めた。同時に「大宝寺城」 が「鶴ヶ岡城」、「尾浦城」 が「大山城」と改められている。
その後、元和8年(1622)最上氏が改易となり、庄内には信濃松代から譜代の酒井忠勝が14万石で入封し、鶴ヶ岡城を居城とし、 亀ヶ崎城には城代を置き、以後幕末まで至った。
『日本城郭大事典(新人物往来社刊)ほかより』

現況・登城記・感想等

酒田東高校の北西部に土塁が残っているだけであるが、その長く続く土塁は、高さも3m程度であるが、 なかなかしっかりとした土塁で見応えがある。
(2008/05/20訪れて)

ギャラリー

土塁

土塁にしっかりと根を張った木

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