居館跡と伝えられる無量寺
相模平定を狙う早雲に攻められ落城した三浦道寸の居城
所在地
神奈川県伊勢原市岡崎5410、無量寺
無量寺:電話0463-94-1216
駐車場はないので、無量寺の前の道路脇に停めた
形状
平山城
現状・遺構等
現状:無量寺、雑木林、畑地など
遺構等:曲輪、土塁、虎口、空堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2009/11/08
歴史等
岡崎城は前期(岡崎神社を中心とした範囲)と後期(無量寺を中心とした大規模な範囲)の2つの時期にわたり、場所を変えて築城、利用された。
前期(平安時代末~鎌倉時代)の岡崎城は、源頼朝の巧臣岡崎義実がこの城を築いた時代である。義実は、衣笠城主三浦義継の四男で、この岡崎城を築いて岡崎四郎義実と名乗った。義実は、頼朝の挙兵に応じて立ち上がり石橋山の合戦に参じ、その後も頼朝に付き従って行動し、岡崎氏は三浦の四棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)の一つに数えられる重臣となっていった。
後期(室町時代~戦国時代)の岡崎城は、明応3年(1494)に三浦義同(よしあつ・出家後に道寸)が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意を三浦の新井城 (横須賀市)へ置き、自らは岡崎城に手を加え居城としたものである。
上杉高救(たかひら)の次男であった義同は、新井城主三浦時高の養子となったが、やがて時高は実子ができて義同を疎んじはじめたので足柄に隠退したが、義同を慕う家臣らはそんな義同に新井城復帰を薦めた。そこで義同は新井城に時高を攻めて討ち取ったのである。
その頃、関東進出を図っていた伊勢宗瑞(北条早雲)は、小田原城を奪い相模平定を狙った。 大庭城を陥れた宗瑞は、次いで岡崎城に襲い掛かったが、堅固な岡崎城に阻まれ、実に17年間にわたり睨み合いが続いた。
しかし、永正9年(1512)8月、伊勢宗瑞の猛攻により、遂に攻め落され、義同は、弟の三浦道香を頼って住吉城 (逗子市)に逃れ、転戦の後、新井城に立て籠もった。
攻防を繰り返すこと3年、永正13年(1516)7月11日に、義同は一族と共に滅んだ。義同が同じ新井城に義父時高を討ってから20余年後、三浦一族の壮絶な最後であった。
その後、岡崎城は後北条氏の持ち城となったと思われるが、廃城時期は明らかではない。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』
現況・登城記・感想等
岡崎城といえば、何と言っても北条早雲が奪取後に相模平定に向けての第一歩目の城で、小説にもよく出てくる城であり、早雲ファンには欠かせない城址であろう。
岡崎城はかなり大きな規模の城郭であったであろうと想像されるが、宅地化が進み、今では往時の様子を窺い知るのはちょっと難しいようだ。
しかし、岡崎城の居館跡とされる無量寺の裏へ廻ってみると、城址は雑木林や畑地となり整備はされていないが、曲輪・空堀などが見事に残され、それなりに見応えがある。
是非、今後も大切に維持保存してもらいたいものだ。
(2009/11/08登城して)
ギャラリー
無量寺境内にたつ説明板と小さな城址碑
無量寺裏の土塁と空堀
無量寺の裏へ廻ると、いきなり土塁と空堀が確認される。
無量寺の西側の曲輪の土塁
無量寺の裏(西)側には曲輪が三連郭になっているようだ。この曲輪は、その中で最も高い位置にある。
無量寺の西側の曲輪
この曲輪跡は上写真の土塁上の曲輪であるが、畑として利用されている。この曲輪が最も高い所にあり、しかも周囲を空堀等で厳重に守られているので、主郭ではないかと思うのだが・・・?尚、この奥にも曲輪が続いているようだったが、強烈な藪でとても入って行く勇気は無かった(汗)。
深~い空堀
上写真の曲輪の北西から南にかけて空堀が掘られている。この空堀は深い上に、上部幅も10mほどある大規模なもので、見応え充分だ。また、この堀の手前の土塁はやや広めであり、また北から西方面にかけての眺望が良いことからちょっとした曲輪、あるいは物見台であったのであろうか・・・。
空堀(往時は水堀?)
上写真右側の土塁下にもこのような外堀跡が残っている。幅の広いことや、浅いことを考えると、往時は水堀或いは泥田堀であったのではなかろうか。左の土塁は高さ5mほどある。
南虎口?(堀底道)
無量寺の南端付近にある、幅約1m、長さ12~13m、土塁上まで深いところで約3mの屈曲した切通しがあるが南虎口ということになろうか。