武蔵 寿能城(さいたま市)

本丸跡(寿能公園)に建つ築城者・潮田資忠の墓

太田資正の第4子・潮田資忠が岩槻城の支城として築城

所在地

埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目155(寿能公園)
【行き方】
東武野田線「大宮公園駅」の南東の狭い路地を南東へ道なりに4~5分歩くと産業道路に突き当たる。そこを右(南) へ行くとすぐに左側に寿能交番(寿能町2丁目140-5)がある。その交番横に高い石碑が立っている。
(寿能交番横に石碑、この横の道を入って行く)
 
その石碑脇の道を300mほど進むと左(北)側に妙法寺がある。その東側に寿能公園へ入る道(案内板有り)がある。
(右上に「←寿能城跡」の案内板、写真奥が築城者・潮田資忠の墓)

形状

平城

現状・遺構等

現状:宅地化(本丸跡が寿能公園に)
遺構等:潮田資忠墓、石碑、説明碑

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/08/07

歴史等

寿能(じゅのう)城は潮田出羽守資忠の居城である。資忠は岩槻城主太田資正 (太田道灌の曾孫)の第4子で、大宮・浦和・木崎寺を与えられ、母方潮田家をつぎ、永禄3年(1560)岩槻城の支城として寿能城を築いた。
城地は東西約873メートル 南北約436メートルあり、見沼の沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所には出丸を築いた。
永禄7年(1564)に太田資正が岩槻城を留守にしていた隙を見計らい、 後北条氏は資正の長男氏資を篭絡し資正の追放に成功した。寿能城主・潮田資忠も、兄に従い後北条方に属した。
天正18年(1590)の小田原の役の際、資忠は長子資勝とともに小田原城に籠城し奮戦したが。 4月18日父子ともに討死し、家臣北沢宮内等が守備した当城も、同年6月豊臣勢(浅野長政軍)の火にかかって落城した。
『「現地説明碑」、「寿能公園・潮田橋等の説明板」、「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」他参照』

現況・登城記・感想等

寿能(じゅのう)城は、住宅地の中に埋もれてしまい、往時の面影は全くなく、本丸跡の一部が小公園(寿能公園)となり、 櫓台跡と伝わる辺りに、築城者「潮田資忠」の墓石が建つのみである。また、産業道路沿いの交番横に高い石柱が建てられている。
説明板等々によると、小田原の役で落城した後、徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址はほとんど失われたようだ。
そして、大正15年県史跡に指定されたが、太平洋戦争時には、高射砲陣地として雑木林は開墾され、遺構の破壊が更に進んだ。
さらに戦後、宅地化が進むにあたって僅かに残っていた土塁等も失われた。そして、城址本丸跡の一部が小公園(寿能公園) として永く保存することとなったとは言うものの、面影はほとんど残っていないというのが現状である。
なお、寿能公園のすぐ東側を流れる見沼代用水の東側には、出丸があったとのことであるが、今は大和田公園となっている。 その大和田第二公園の梅園や日本庭園の近くにある雑木林に、土塁や堀のような痕跡を留めているが、果たして・・・?? この周辺のみが僅かではあるが、往時の面影が残るかも??
(2009/08/07登城して)

ギャラリー

築城者・潮田資忠の墓

出丸の土塁と堀??
寿能公園のすぐ東側を流れる見沼代用水の東側には、出丸があったとのことである。 大和田第二公園の梅園や日本庭園の近くにある雑木林に、土塁や堀のような痕跡を留めているが、果たして・・・?? この周辺のみが僅かではあるが、往時の面影が残るかも??

謎の天守台???
大和田第二公園の低地部分に、まるで天守台のようなのがあったが、何だろう?? 何処からも登るところはないようだった・・・??

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント