武蔵 大和田陣屋(さいたま市)

陣屋南西部の土塁

小田原の役の際の岩槻城落城の守将・伊達房実が構えた陣屋

別名

伊達陣屋

所在地

埼玉県さいたま市見沼区大和田町1丁目
【行き方】
①東武野田線大和田駅の南西、徒歩約10分
②大和田公園・大宮球場の北側の道を東へ約500m、バス停「大和田坂上」に説明板。その北方約70mのH氏宅に土塁が残る。

形状

陣屋

現状・遺構等

現状:個人宅
遺構等:土塁、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/08/07

歴史等

大和田は、大宮と岩槻を結ぶ交通の要衝にあり、さらには現大宮市内で最も標高(18.6m) が高く周囲への展望が良いところであったため、中世~近世にかけては軍事拠点として利用され、伊達城(形態は館で、伊達陣屋・ 大和田陣屋とも)が築かれていた。
当城は、寿能城とともに岩槻城の軍事拠点としての役割を果たしていた。
城主・伊達与兵衛房実は、初め北条氏政に仕えていたが、太田氏房が岩槻城に入るにあたり、 奉行人として遣わされた。
房実は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原の役の際には、小田原城に籠城した主君氏房に代わって岩槻城の守将を務めた。
後北条氏滅亡後、関東に入封した徳川家康は、領国支配にあたって、後北条氏や岩槻太田氏の旧臣を組み入れた。房実もまた、 守将としての活躍が認められ、天正19年(1591)11月、旧領・大和田村などに450石を与えられ、 居城であった伊達城の一画に陣屋を構えた。
『「現地説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編(さきたま出版会刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

大和田陣屋を知らなかったが、寿能城址へ行った際、見沼代用水に架かる潮田橋の説明板で、この陣屋の存在を知り、寄ってみた。
バス停・大和田坂上のところに説明板があり、その北方約70mの森の中にH氏宅があり、その周囲を土塁が囲んでいる。
土塁は、想定していたより遥かに良好に残り、南東隅の高い所では約3mもあるが、土塁上や手前の植栽等で、確認しづらく、 写真にも撮りにくいのが残念・・・。
(2009/08/07登城して)

ギャラリー

陣屋跡遠望
写真奥の森が陣屋跡。写真のもう少し右側に説明板が設置されている。

案内板と説明板
バス停「大和田坂上」のところに陣屋案内板と説明板が設置されている。

陣屋南東部隅の土塁
H氏宅の周囲を囲む土塁は、実に良好に残り、この南東部隅辺りは高さ約3mある。 土塁上や手前の植栽で確認しづらく、また写真にとっても分かり辛いのが残念だ。
 

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