深谷城址公園西側出入口の模擬石垣・塀・堀
深谷上杉氏が古河公方に備え築城、江戸期は松平氏、酒井氏が居城
別名
木瓜(ぼけ)城
所在地
埼玉県深谷市本住町、深谷城址公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:深谷城址公園、富士浅間神社
遺構等:堀、模擬(石垣、塀、堀)、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
歴史等
深谷上杉氏は上杉憲英が南北朝期に庁鼻和城を構えたのが始まりとされ、
その後憲光、憲信と三代にわたって居城した。
室町時代中期の康生2年(1456)、4代房憲は古河公方の侵攻に備えて深谷城を築いて移った。
深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、土塁や深い堀をめぐらした城は、面積20haあり、
その形から木瓜城とも呼ばれた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻めによって開城するまで、憲清・憲賢・憲盛・氏憲と、134年間にわたり、
戦国時代の北武蔵における上杉方の支城であった。
そして同年(1590)、徳川家康の関東入部に伴い、三河国長沢松平出身の松平康直が1万石を領有し、居城した。
康直は、城や宿を整備したが、文禄2年(1592)、25歳の若さで病没したが、嗣子がなかったため、家康の七男松千代を後嗣としたが、
8歳で夭折したので、慶長4年(1599)兄の六男忠輝が継いだ。しかし、忠輝は慶長7年(1602)に下総佐倉へ転封となった。
同15年(1610)に松平(桜井)忠重が新封8千石を領有し入封したが、元和8年(1622)上総国佐貫へ移封となった。
そのあとに酒井忠勝が1万石を領有して入封したが、寛永4年(1627)に武蔵国川越へ移封となり、
深谷藩は廃藩となり、深谷城も寛永11年(1634)に廃城となった。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立資料館編(さきたま出版会刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
深谷城址は、城址公園として整備され、市民の憩いの広場となっている。
公園には、往時の遺構は勿論、面影も全く残っていないが、公園の東側に隣接する富士浅間神社(往時は深谷上杉氏の祈願社)周囲には、
石垣などでかなり改変されてるものの外堀跡が残っている。
また、公園には模擬石垣・塀・堀が造られている。
(2009/09/06訪れて)
ギャラリー
城址公園南入口の模擬石垣
城址公園南側の模擬石垣と堀
城址公園南西部の模擬塀と石垣
【富士浅間神社を巡る堀】
富士浅間神社は深谷上杉氏の祈願社であり、周囲には、
石垣などでかなり改変されてるものの外堀跡が残っている。
富士浅間神社南側の堀と外堀跡と記された標柱(右)
南西部の堀
西側堀の南部分
東側の堀(㊧北部分、㊨南部分)
北東部角