下総 本佐倉城(酒々井町)

倉庫址とセッテイ山の間の空堀

下総の名族千葉氏最後の本拠

所在地

千葉県印旛郡酒々井町本佐倉

形状

平山城

現状・遺構

遺構等:曲輪、土塁、空堀、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2008/02/13

歴史等

平安時代中期、上総・下総に強大な権力を持っていた平忠常は、大椎城 (千葉市緑区大椎町)を築城し、長元の乱(1027~1031)の根拠地とした云われる。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、当時不当な貢税を課した受領(国司)の暴政や貴族権力に反抗した。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、 千葉城(猪鼻城・湯の花城)に移った。
その後、千葉氏は、治承4年(1180)、源頼朝の平家打倒の旗揚げに協力して以来、鎌倉幕府有数の御家人として、房総半島一帯に君臨した。
室町時代後期になると、関東地方は「永享の乱」「結城合戦」「享徳の乱」など争いの真っ只中になった。その結果、古河公方と関東管領上杉氏に分かれて戦うようになった。この争いは、千葉氏にも飛び火し、一族や家臣は両派に分かれて戦いを始めた。
康正元年(1455)3月20日、古河公方派の馬加城 (まくわりじょう・千葉市花見川区幕張町)の馬加康胤(宗家・千葉胤直の叔父)は千葉氏の重臣原胤房と謀って、上杉派についた千葉宗家の千葉城(猪鼻城)に奇襲をかけ、これを焼き払った。宗家当主の胤直は千田庄(千葉県香取郡多古町)の多古城に、その子胤宣は志摩城(島城)に逃れたが、これらの城も攻められて胤直父子は自刃し、千葉宗家は滅亡した。
代って馬加康胤が千葉介を称し、宗家を継ぎ(馬加系千葉氏)、胤直の弟胤賢の子実胤と自胤は武蔵国に移りこれに対抗した(武蔵千葉氏)。
将軍足利義政に仕えていた千葉氏一族の美濃東氏の東常縁は、義政の命により同年12月13日馬加城を攻略し、翌2年11月1日村田川の決戦にて康胤を討死させた。
しかし、常縁の本拠地美濃国郡上郡の領地を守護代によって奪われたため、美濃国に戻り領地を取り戻した。
常縁が美濃国に戻った後、下総は宗家を継いだ康胤の子孫が統一したが、戦乱によって荒れた千葉城を離れ、文明年間(1470年代)に千葉輔胤(康胤の孫)は新たに印旛沼南岸に本佐倉城を築き移った。佐倉は、印旛沼の水路で古河と繋がっていたので、この移城は、古河公方との関係を深める意味もあった。
その後、下総の地は、小弓公方・古河公方・後北条氏の対立の場となったが、千葉氏は後北条方に味方した。そして、第一次・第二次国府台合戦で後北条氏が勝利し、後北条氏は関東の覇権を確立していった。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏は敗れ、それに従っていた千葉氏も滅亡した。
その系流は戦国末期の重胤を経て更に現代の千葉胤雄・勝胤までほぼ1千年40代に亘って続いており、千葉県で各地に多く繁栄しているそうである。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「千葉城郷土資料館内展示資料&印刷物」、「大椎城址説明板」他参照』

【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。

【結城合戦】

永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、 結城城は陥落した。春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。

【享徳の乱】

助けられた永寿丸(万寿丸ともいう)は成長して成氏を名乗った。成氏はやがて関東管領上杉憲忠と対立し、憲忠を討ったが、将軍足利義政の派遣した幕府軍に攻められ、下総古河に逃れた。

現況・登城記・感想等

本佐倉城跡の規模の大きさには驚いたというよりも感激した。城山や東山などが発掘調査中であったが、この広い城郭を考えれば、まだまだ調査が始まったばかりといった感じである。もし、これらの城郭全ての発掘調査が完了したら、とんでもなく素晴らしい城址公園になるだろう。
曲輪、土塁、空堀など、どれをとっても大規模でスゴイ!!どれがと言うよりも、全てが、「最大の見所?」だ。
私には「本当に感激した」という以外に表現の仕方が分からない。
寒風が吹きっさらしの中での登城だったが、その強烈な寒さも吹き飛ぶほどの素晴らしい城址だった。1~2年後に再登城したいと思う。
(2008/02/13登城して)

ギャラリー

本佐倉城鳥瞰図(パンフレットより) ~画面をクリックにて拡大~
本佐倉城鳥瞰図

東山馬場
ここは駐車場になっているようであったが、今日は日赤のテントが張られていました。検診でもあるのかなと思ったが、誰も居る気配がなかった。
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東山虎口
東山馬場から城内へ向かうと、右(北)の方に規模が大きくて印象的なこの東山虎口が見えます。東山虎口は2つの門と蛇行した狭い通路、内枡形の空間によって厳重に守られています。写真右の土塁には物見台等があるようですが、発掘調査中で残念ながら行くことはできませんでした。
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城山と奥ノ山間の大堀切
次に、城山へと向かうと、いきなりこの大規模な堀切が迎えてくれます。高低差は約6mあります。
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城山虎口への道
堀切を通り、城山へ向かうと、虎口手前に竪堀(写真右)があり、その脇から城山虎口(写真奥上)へ向かう坂道があります。この坂道が城山へ登るための唯一の通路で、通路幅は180cmで、砂によって舗装されていたそうです。
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城山の枡形虎口
通路は登り坂で、門を入ると目の前に壁がある内枡形になっており、直角に左へ曲がって郭内へ入る「左折れの坂虎口」です。
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城山の枡形虎口を上横から撮影
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城山
城山は、いわゆる本丸に当る郭でしょう。この広い城山の周りは土塁が巡っています。発掘調査中で、曲輪の東半分は建物跡に多くのブルーシートが被せられていました。また中央には馬出のような土塁が造られて?いましたが、馬出にしては場所が不自然だし何なのかは分かりませんでした。この馬出?前は、周囲を巡る土塁が切れているようだったので、ひょっとしたら虎口だったのかもとも思いましたが、その下は急崖です。
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城山建物跡
城山には主殿をはじめ台所や倉庫があったと思われ、発掘調査中のようでした。
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城山周囲を巡る土塁
城山の周囲をめぐる土塁は高さ1~2mほどで底辺幅は3m弱ほどでしょうか。
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城山下の帯曲輪
城山の下には、北側から東側の方へと帯曲輪がぐるっと周っていますが、犬走りというべきかもしれないですね。
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城山から東山虎口を見下ろす
城山から見下ろすこの光景は、城山との比高差が30mはあることを実感させてくれます。
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奥ノ山
奥ノ山は、妙見郭とも呼ばれていますが、いわゆる二の丸に当る郭でしょう。
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妙見宮跡
奥の山と倉庫址の間には土塁がありますが、その手前に妙見宮の基壇が見付かったそうです。

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倉庫址
ここは兎に角広い。東山馬場に向かって塁段になって下がっている。これだけの広さ全てが倉庫だったとは思えない。恐らく三の丸に相当する曲輪だったのではないだろうか?
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諏訪社
北側虎口横の土塁上には諏訪社が祀られているが、往時は櫓が建っていたのではないだろうか。
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諏訪社手前から城山と奥ノ山間の堀切を
堀切の左が城山、右が奥ノ山ですが、80mほど離れていますが両郭間を断ち切る大堀切がはっきりと分かります。
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倉庫址とセッテイ山の間の空堀
この大規模な空堀は、上部幅20m、高さ10はあります。また、折れがあり、見た目にも実にかっこいいです(*^_^*)。
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セッテイ山
セッテイ山は人質曲輪とも接待館郭とも推測されていますが、それほど広くはありません。石碑は建っているものの、ほとんど未整備状態です。
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セッテイ山の北のセッテイ虎口
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セッテイ空堀(セッテイ山の西側の空堀)
セッテイ山の西側のこの空堀は当城で最も大規模で、高低差16mあるそうです。
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