小見川中央小学校の運動場のほぼ中央に築かれた築庭に立つ標柱
徳川創業期の部将松平家忠により構築、のちの大老土居利勝も一時在封
所在地
千葉県香取市小見川94(小見川中央小学校)
小見川中央小学校:電話:0478-82-3249
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:小見川中央小学校
遺構等:石鯱、門礎石?、標柱
満足度
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訪城日
2008/10/23
歴史等
小見川陣屋は、文禄3年(1594)徳川創業期の部将松平家忠が下総香取郡上代から1万石で入封し、陣屋を構えた。家忠は、慶長5年
(1600)の関ヶ原役の際、伏見城で戦死し、
嫡男家利が相続したが、翌年三河深溝(愛知県幸田町)へ転封となった。
翌7年(1602)、のちに大老となる土居利勝が1万石で入封し、同15年(1610)加増があって3万2千石余で下総佐倉へ移るまで在封した。
同17年(1612)に安藤重信が1万6千石で入封したが、元和元年(1615)に加増があり、合せて5万6千石余で上野高崎へ転封し、
一時廃藩となった。
享保9年(1724)下野鹿沼の内田正親が1万石を与えられ、小見川に陣屋を構え、再度立藩し、10代、約150年にわたって在封し、
明治を迎えた。
小見川は佐原の東にあり、古くから利根川舟運の積み出し河港として栄えた。
小見川藩の侍医山口甫僊の子として生まれた佐藤尚中は、佐倉藩医で順天堂をひらいた佐藤泰然の養子となり、のち江戸に順天堂
(のちに順天堂大学)を開設し、大学東校(のちに東京大学医学部)を主宰した。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』
現況・登城記・感想等
小見川小学校の運動場の真ん中に、ちょっとした築庭があり、そこに「内田藩陣屋」と書かれた、古びた白い標柱が立っているだけである。
また、標柱横の籠の中に陣屋門の礎石らしきものが置かれていた。
写真を撮っていると、丁度、校長先生が来たので尋ねると、「そこには、校舎を一部建て替える時に出てきた石の鯱が置かれていたが、
今は学校内に保管されている。」とのことだった。礎石については「よく分からない」とのことだったが、鯱瓦を置いていた台には見えないし、
わざわざ籠の中に入れてあるところをみると陣屋門の礎石だろう(あまり自信なし)と、自分で勝手に納得した。
(2008/10/23訪れて)
ギャラリー
小見川陣屋跡は小学校になっている。小学校内は昨今の世相から、ただでさえ入り辛いのに、
よりによって校庭のど真ん中にちょっとした築庭があり、そこに標柱が立っている。
陣屋門礎石?or 石鯱瓦台?
門の礎石にしては穴が多すぎる? 鯱の台だったら鯱と一緒に校舎内へ持っていって台にしているだろうしなあ?
知ってる方がいらしたら教えて下さい。
【佐原】
小見川は利根川舟運の積み出し河港として佐原とともに栄えた町である。佐原と言えば、
伊能忠敬の出身地であるとともに「小江戸・佐原」であり、今尚江戸時代の風情の漂う町である。
(小江戸・佐原の町並み)
(鰻)
そして、佐原と言えば、『鰻』である。老舗が何軒もあるようだが、その中でも有名な「山田
(香取市佐原イ457、電話0478-52-4375)」へ入った。この店の鰻は、元々は別重で出されたものだが、
直重のリクエストが多いため、今では両方あるそうだ。私は、直重の特上(3,700円)を頼んだ。美味い上に、このボリューム!
食べ過ぎて腹が苦しかった。上(2,200円)で十分だったかもね?