安房 岡本城(南房総市)

主郭跡に立つ城址碑

里見氏が後北条氏に対する海防の拠点として築いた城

所在地

千葉県南房総市富浦町豊岡(里見公園)
【行き方】
東京方面から国道127号線を南進し、富浦町豊岡に入りしばらくすると左(東)側に「里見公園」の案内板がある。そこを左(東) へ大きく曲がると登城道へと出る。ここには車を停める所はないが、すぐ近くの海岸に駐車場がある。

形状

海城(平山城)

現状・遺構等

現状:山林(里見公園)
遺構等:曲輪、土塁、石積み、空堀、堀切、櫓台、枡ケ池、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/01/15

歴史等

岡本城は直接海に面した海城で、里見水軍の根拠地である。また一方、 この地は海上交通の拠点となる湊を活用した経済活動の拠点でもあった。
戦国大名里見義弘は小田原の後北条氏に対する海防の要地にするため、永禄初年(1558)頃、時の城主・岡本随縁斉から召し上げて修築し、 弟の義頼を置いた。以後、天正18年(1590)豊臣秀吉に上総を没収されたのを契機に居城を館山城に移すまでの20余年間、 第8代義頼、第9代義康が居城とした。
永禄7年(1564)の国府台合戦で後北条氏に敗れた里見氏は、久留里城に父義尭が、 佐貫城に義弘が上総を固め、 岡本城には安房の押さえとして義頼が守った。
最初、義弘は子がなかったので、弟の義頼を猶子としたが、永禄12年(1569)に実子梅王丸が生まれた。 義弘は房総を義頼と梅王丸に半分づつ与えると遺言した。天正6年(1578)に義弘が没すると、義頼はそれを守らず、 その名跡を巡って安房を基盤とする義頼派と上総を基盤とする梅王丸派との間に内乱が起こり、義頼派が勝利して、 梅王丸は東方の聖山に幽閉された。
『「房総里見氏(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

岡本城は、主郭部の城山と東方の聖山の郭間を大堀切によって区分けされている。
城山(岡本城址主郭部)の曲輪跡は大半が枇杷畑になっており、登城口からその合間を縫うように主郭へと登る。
主郭には発掘調査時に掘立の高層建築跡発見されたそうだ。また、主郭周囲に土塁は廻っていないものの、 全て削り上げた絶壁の切岸になっており、下を見ると怖いほどであり、これだけで防衛は充分なのかも。
主郭部の西方へ進むと、途中には土橋があり、尾根上が削られた曲輪が続き、先端部は物見台状の地形になっている。 ここから東京湾を見渡す眺望は素晴らしい。また、この周囲も強烈な絶壁である。
主郭の東には階段があり、下りて行くと城山と聖山間の大堀切へと出る。
聖山にも枇杷畑が多く、そのために造られた道を東へ進むと、途中堀切が3箇所ある。
さて、ここで今回の大失敗である。用意した鳥瞰図を忘れてしまい、この先に、この城址の見所の一つ枡ケ池があるのを忘れてしまい、 ここで引き返してしまった。下城してから気が付いたが後の祭。また、近い内にリベンジしよう。
(2009/01/15登城して)

ギャラリー

城山(主郭部)全景
豊岡海水浴場から撮ったもので、中央の山が城山である。この海水浴場に駐車場がある。 ここから登城口までは徒歩3~4分ほどで行ける。

舟溜り?
海水浴場の近くには岩場があり、ピットがいくつも確認できるが、里見水軍の基地・舟溜り跡か?
尤も、ピットの一部には朽ちた木杭が残っているものもあり後世のものかもしれないが・・・。

登城口
城址登城口は一般道路からいきなりの急坂だ。こういうのも珍しいが、 このトンネル上の急崖を見上げると期待一杯に!

登城道両側の曲輪群
城山(岡本城址主郭部)の曲輪跡は大半が枇杷畑になっており、 登城口からその合間を縫うように主郭へと登って行く。登城口から主郭までは7~8分ほどで到着する。
 

主郭
主郭には、西隅に説明板と石碑が立っている。また、テーブルとベンチがいくつか設置されているが、 木々に遮られて眺望はよくない。

㊧説明板、㊨石碑
石碑にも城趾の説明が刻まれているが読めない。
 

土橋
石碑の横を通って西の方へ進み、土橋を渡ると尾根上が削られた曲輪跡が続く。土橋は7~8mほどで、 両側とも10mほどの崖になっており、下が風雨で削られ中へ喰い込んでいて気持ち悪い。

物見台
尾根の先端は物見台状の地形になっている。この辺りの周囲下の切岸も急崖になっており、 下を覗くと恐ろしいくらいだ。

物見台付近からの眺望①
物見台付近から東京湾を見渡す眺望は素晴らしく、真下は船溜りに絶好の地であり、 この城が海防の為の海城であったことが納得できる。

物見台付近からの眺望②
眼下には富浦の町、遠くには館山湾が見渡せる。右半島の先は大房崎である。

聖山へ
主郭の東にある急な石段を下りて聖山へと行く。ここも強烈な切岸で、石段がなければとても下りては行けない。 右写真は石段横の切岸。
 

大堀切
城山(主郭部)と聖山間は大堀切で断ち切られている。

石積み
大堀切の主郭側には石積みが見られたが、往時のものかどうかは??

横堀
主郭北東下には土塁と横堀状の地形があり、奥の方へ廻っていたことから類推するに往時のものだろう。

横堀の石積み
横堀の両側には、所々に石積みが確認されたが・・・?

堀底道
聖山は東へと堀底道が続くが、これは往時のものに枇杷畑用に改造したものかな?

堀切
聖山には堀切が3本あるが、この堀切が最も大掛かりな堀切である。

堀切の石垣
堀切の片側(上写真右側)には石垣が見られたが、これは後世のものであろう。

上写真の堀切から、さらに、右に2~3mほどの切岸、左に急崖を見ながら進む

虎口?
登りきった辺りに「堀切のような虎口のような所(手前左側)」がある。土塁横は曲輪跡のようであったが、 後世改造されたものかどうか分からなかった。ここからさらに、左手に切岸を見ながら進む道が続いていたが、切りが無いと考え、 ここで引き返してしまった。これが大失敗!!この城の最大の見所である「枡ケ池」を見落としてしまった。また近い内にリベンジだ!

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