主郭部北西下の大規模な空堀
真里谷武田氏により築城、後に後北条氏に備える里見水軍の城に
読み方
つくろみじょう
別名
百首城(幕末には竹ケ岡台場として利用)
所在地
千葉県富津市竹岡字城山(国道127号線が貫く「城山トンネル」の上の山一帯)
【アクセス】
東京方面から国道127号線を南進し、富津市竹岡に入り、しばらく進むと「城山トンネル」がある。そのトンネルのすぐ手前に「灯篭坂大師」と書かれた参道入口の大きな白い鳥居がある。鳥居を入るとすぐに空き地があるので、ここに駐車(5~6台は可能)。
形状
山城(海城)、標高99m
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石積み、切通し、横堀、水堀
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/01/15
歴史等
造海城の正確な築城時期は不明であるが、上総武田氏の3代で真里谷城主初代武田信興の寛正2年(1461)頃、北上する対里見氏への防衛のために築城されたと言われる。
天文3年(1534)、武田信保の跡目を廻り庶子の長男信隆と嫡子信応の間に内乱が勃発した。*天文6年(1537)信隆は北条氏の助力を得て造海城に立て籠もったが、信応に付いた里見義堯に攻められ開城した。
里見氏の手に落ちた後は、小田原の後北条氏に備え、対岸を監視・攻撃する水軍の拠点として重要視され、正木氏が守備した。
天正18年(1590)、小田原の役の後、里見氏が安房一国に減封され廃城となった。
幕末の文化7年(1810)、異国船の出没に備えて、老中松平定信が幕命によって城内の北端及び南西端二箇所に台場(竹ケ岡台場)が設けられた。
『「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他参照』
*造海城に立て籠もった真里谷武田方は、寄せ手の里見勢に対して、「この付近の風景を詠んだ和歌を百首つくれば開城する」という条件を出した。これに対して里見軍の将はたちまちのうちに百首を詠じて届けたので軍門に降って開城したと言われ、以後「百首城」と称されるようになったという。
現況・登城記・感想等
造海城は、大規模な上、かなり複雑な構造をしている。
にも関わらず、今回の登城にあたって折角用意した縄張図を車の中へ忘れた上、コンパス等付きの時計まで忘れたのである(;>_<;)。
お陰で、どこを歩いているのか分からず、闇雲に歩き廻ったといった感じであった。その結果、城址の北半分へ行かず、この城址の最大の見所である水堀や堀切等を見落としてしまった。
それでも、城の主郭部付近下の岩盤を削り取った横堀とその横の強烈な切岸は見事で見応え充分であったし、所々に石塁も確認され、結構満足した。
ただ、残念なのは、これだけ素晴らしい城址であるにも関わらず、全く整備がされず藪だらけな上、崖崩れも多く結構危険である。しかも石碑や説明板はおろか標柱さえ設置されていないのは寂しいかぎりだ。否、勿体無い!!
(2009/01/15登城して)
ギャラリー
切通し(トンネル)
白い鳥居をくぐってすぐの所にある空き地に車を停め、一般道のトンネルをくぐるとこの強烈な?かっこいい?切通しというかトンネルへと出る。トンネルの壁面はきれいに削られていることから考えると、掘られたのは現代であろう。但し、往時にも小さな穴くらいは開いていたのかも??
登城口
トンネルを抜け鳥居をくぐり、石段を登って灯篭坂大師を目指す。
灯篭坂大師と虎口
石段を登りきると灯篭坂大師である。そして、その裏に虎口が見える。
大手虎口
この虎口が大手口だったらしい。岩盤を削った荒々しい切通しの虎口は迫力満点だ。
大手虎口と登城道
上写真の大手虎口を入った所から振り向いて撮ったものである。城址へは、左側の虎口から入り右側の藪の中の道へと入って行く。
登城道
しばらく進むと右側が絶壁の細い道になる。崩れたところもあり結構危険だ。
虎口と石積み?
途中、右下に腰曲輪や左側に曲輪&物見台のような地形を確認しながら尾根道を進むと、この虎口へと出る。右側面は石積みのようだが、岩盤を削った自然のもののようだ。。
切通し
さらに進むと、岩盤を削った切通しへと出る。
曲輪間の堀切
登城道の上が曲輪跡のようで、途中、上を見上げると堀切を確認出来る。
堀切
上写真の堀切へよじ登って行って撮ったものです。
主郭への急崖
さらに尾根道をどんどん進むと、この急崖の道?へと突き当たる。この手前にも左(西)側へ行く「道の跡らしきもの」があったが、崖崩れで道が落ちてしまったらしく竪堀のようになってえぐられていた。
主郭虎口?
上写真の急崖を登りきり、振り返ると虎口になっており石積みがあった。写真左上の辺りが最高所のようで、この虎口は主郭虎口ということになるのかな?
主郭?
主郭は2段の石垣で築かれているが、石がゴロゴロ! 登れそうにない( ̄ー ̄;。
主郭部北西下の横堀 ~クリックにて拡大画面に~
一旦、主郭下へ戻り、ゴロゴロ転がった石(3つ上の写真)の所を乗り越え下りて行くと、岩盤を削り取った見事な横堀底へと出た。毎日晴れた日が続いているにも関わらず、堀底はかなり濡れており、往時は沼のようであったのかもしれない。この横堀は実に見応えがあり、この城址の最大の見所の一つであろう。
切岸
堀底から主郭部側の切岸を見上げる写真。岩盤を削った切岸は強烈なインパクトがある。高さも20m近くあるのではないだろうか?
土塁
主郭部切岸の反対側は土塁になっており、その先端部にははっきりとした石積みがあった。綺麗に切られた石であることから考えると、幕末の台場建造時のものと思われる。写真の奥は主郭部切岸。
石垣
土塁には他にも石垣が所々に残っているが、これらも台場建造時のものであろう。
土橋
横堀を見た後、主郭下へ戻り南西へ廻り土橋へ出た。土橋の真ん中に標柱が立っているので、城址名か遺構の標柱かと思ったら、何と「富津市萩生花ノ木77番地」とある。ガッカリしたというか、何の意味があるんだ!?
南西部の曲輪へ向かう
土橋を渡り、南西方面へ行くと左側に土塁が見えてくる。ここにはかなり多くの石積みが残っていた。また、土塁横を通り過ぎて見ると、土塁は曲輪周囲を囲んでいるようだった。
さらに曲輪が
さらに南西へ進むと、今度はかなり広い曲輪へと出る。右下へ下りて行く道があり、腰曲輪へと出るようになっている。先程の曲輪とは土塁で区切られている。
腰曲輪
この腰曲輪辺りは、幕末時に台場として使われた中心部らしいが、残念ながら見落としてしまった。つくづく車の中へ縄張図を置いてきてしまったのが悔やまれる(泣)。