上総 真里谷城(木更津市)

千畳敷

上総武田氏(真里谷氏)代々の本城

所在地

千葉県木更津市真里谷字真池(木更津市立少年自然の家キャンプ場)

形状

山城

現状・遺構等

現状:山林、キャンプ場
遺構等:曲輪、土塁、虎口、空堀、堀切、竪堀、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2008/09/11

歴史等

戦国時代の初期にあたる康正2年(1456)1月、甲斐武田氏の分流である武田信長が、子息の信高ら一族をひきつれて上総国に進入してきた。そして、信長は真里谷(まりやつ)城と庁南城の2城を拠点として、上総国一帯に勢力を張っていった。
信長は武田信玄より120年前の応永7年(1400)、甲斐に生まれたと推定されるが、16歳のとき鎌倉で上杉禅秀の乱が起こると、父の信満とともに禅秀に加担した。信長はその後も、永享の乱、結城合戦などの戦いに参加、勇名を馳せている。
信長の上総入国は古河公方足利成氏の命によるもので、成氏は当時、武田氏・里見氏その他関東の豪族達のバックアップによって宗家の室町幕府との抗争をつづけていた。
武田氏は、信長以来、信高-信興(信高の長子)-信勝-信清-信保-信隆-信助-信応-信高と10代この城に住み、真里谷氏を称した(7代信隆以降は、椎津城を本城にしていた時期もあるようだ)。
また、信高の次子(信長の孫)道信以後、代々庁南城に住んで庁南武田氏を称している。
両氏を合わせた房総武田氏は、その後、久留里城佐是城・峰上城・百首城・佐貫城・笹子城・中尾城・椎津城・大多喜城などを築き、一族を配置して守らせ、下総の千葉氏や安房の里見氏などに対抗している。
この真里谷城は、永正4年(1517)から天文3年(1534)までの約20年間が全盛期であったようで、武田と里見の連合勢が北条勢にやぶれた国府台合戦(1538)以後、武田氏一族の勢力が衰えるとともにその役割を終え、豊臣秀吉が関東を平定した天正18年(1590)真里谷信高の代に、秀吉麾下の徳川勢に攻められ落城し、信高らは那須に落居し、廃城となった。
『「現地説明板」、「臨時増刊歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」他より』

現況・登城記・感想等

真里谷城は、不思議な所に築かれたものだ。木更津市とは言え、随分山奥で見渡す限り山ばかりだ。水運の要である小櫃川からも、主要街道からも離れていて、人家も周囲には殆どなく、真里谷の集落にも大変な距離がある。
尤も、城郭そのものは、さすが上総武田氏の本城だけあって、大規模な城である。中でも、(腰郭も含めた)郭の多さや広さ、大規模な土塁などには圧倒される。
真里谷城は、主郭群~四郭群の大きく分けて4つの部分からなる変則的連郭式城郭で、それぞれの郭が独立した一城別郭式山城である。或いは、武田氏の勢威が盛んになるとともに郭が次々に築かれていったと考えるべきなのかもしれない。
今回は、三郭や四郭の強烈な藪に恐れおののいて、主郭を中心に廻るだけにとどまった。それでも、この城址の素晴らしさは充分に感じ取ることができた。いつか、また二郭から四郭も含めて再登城したいと思う。
(2008/09/11登城して)

ギャラリー

真里谷城概念図(現地説明板より)

さあ登城
真里谷城址主郭部は、今では少年自然の家キャンプ場となっている。木更津市とは言いながら、市街地からは非常に遠く、山中のくねくね道をやってくる。この写真右側(案内板奥)に駐車場があるが、9月に入り、キャンプ場が閉鎖で、金網のフェンスで進入禁止になっている。構わず、この道を突き進んで行った。

四郭
しばらく進むと、左側に「四の郭」の標柱が立っている。その上が、四郭らしいが、ここからはあまりにも急崖と藪で登れそうにないので、パスして、更に車を進めた。

三郭
しばらくすると、今度は右側に「三の郭」の標柱が転がっていた。この上が三郭らしいが、ここも、やはり強烈な藪・藪・藪・・・。そして、耳の辺りににはやたらとブーンブーンという薮蚊の鳴き声が・・・。てな訳で、ここもパス!!

土橋様の細尾根?(土塁?)
道の左側を見ると、竹薮の向こうに土塁のようなものが・・・。登って見ると、土橋様の尾根?(土塁)で、向こう側は急崖になっている。この細尾根は、四郭あたりまで続いているようだったが、果たして???

主郭部へ到着
三郭の所からしばらく進むと、道の正面に金網のフェンスで、車進入禁止となっており、端の方から人は入れるようになっている。道の隅に車を停めて入場すると、キャンプ場の管理塔へと出た。夏休み時は、ここも駐車場となっているのであろう。いよいよ、ここからが主郭部のようだ。左側には土塁が見え、その下に説明板が設置されている。

二郭群へ
説明板の案内図を見ると、駐車場の右(西)上奥は二郭らしい。

二郭群?
㊧早速、登ってみると、土塁に囲まれた郭だった。写真奥の虎口から向こうへ出ると、㊨一段下に帯郭のような細い郭があり、その下に家が建っており、「そこ辺りが二郭だろうか?その間が大堀切になってるのだろうか?」などと思ったが、あまりの藪と急崖のようで諦めた。下から廻るような所はフェンスで入れないようになっているようだった。結局、よく分からず終いで戻ってしまった。

さて主郭へ
管理塔の横をすり抜けると、左側に鳥居が建ち、正面奥に非常に高い土塁様のものが見えるが、これが千畳敷(主郭)の土塁である。ここで、テンションが一気に上がった!!

土塁
一方、鳥居の左側を見ると、説明板の上の土塁が見える。5mはあろうか?これまた、かなりの高さを誇る。

城山神社
鳥居をくぐり、東の方へ進むと、左側に城山神社、そして奥の方には虎口か堀切のようなものが見えて来る。城山神社城の鬼門除けとして祀られていたそうで、中には地元の信者から奉納されたという「胸部に武田菱が描かれた真里谷氏初代の木像」があるというのだが、覗いて見るのを忘れてしまった。ところで、初代真里谷氏とは、武田信長?それとも真里谷と改称した信興?

上写真の奥に見える堀切?虎口?
主郭(千畳敷)北東にあるが、この虎口(堀切)を出ると、帯郭へと出るが、左右とも直角に曲がる。

主郭部北東の土塁と展望台
㊧上写真左側の階段を登り、土塁上を進むと、展望台が建っていた。ここからの眺望は山・山・山・・・、見渡す限り山しか見えない。

千畳敷西側の土塁
千畳敷下から見上げる土塁はとにかく見事だ。中でも、この西側の土塁は何とも絵になる。土塁中央部は千畳敷への虎口。土塁右下は腰郭。

千畳敷西下腰郭
千畳敷西下腰郭跡には、今ではバンガローが並び立つ。異様な光景かもしれないが、お蔭で草も綺麗に刈られていて、歩きやすいのは助かる?尚、この一段下にも腰郭があり、キャンプ用施設が建っている。

千畳敷への虎口
㊧腰曲輪から虎口を入ると、㊨千畳敷より一段低い一種の枡形へと出る。ここは、左右のいずれかへ直角に曲がらなければ行けないように工夫されている。

千畳敷
私は、これほど広大な郭は山城では他には知らない。写真手前のコンクリートの枠はキャンプファイヤー用のものだろうが、写真奥の奇怪なものは一体何だ?

千畳敷の周りを廻る土塁
千畳敷の周りの土塁は実に規模が大きく、高い所では8m近くある。

千畳敷南東部物見台跡に建つ展望台

展望台からの眺望
この展望台からの眺望も、山しか見えない。ここは本当に山奥だ。

南端部の段郭
南方面はこの城の搦手となり、郭が何段も続く。そして、その先には土橋があるようだ。

搦手口へ
㊧段曲輪横(西)に土橋へと続くらしい堀底道のようなものがあったので、降りていった。㊨右下は断崖絶壁になっている。かなりの藪で、途中で諦めた。最近、加齢とともに、とみに藪が苦手になってきている(苦笑)。

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